書(しょ)籍(せき)・論(ろん)文(ぶん)

論(ろん)文(ぶん)

論(ろん)文(ぶん)

親(しん)鸞(らん)の往(おう)生(じょう)思(し)想(そう)~現(げん)生(しょう)正(しょう)定(じょう)聚(じゅ)を中(ちゅう)心(しん)に~

帰(き)依(え) 薫(くん)龍(りゅう) 師し・龍(りゅう)谷(こく)大(だい)学(がく)(京(きょう)都(と)府(ふ))

医(い)療(りょう)と宗(しゅう)教(きょう)~科(か)学(がく)的(てき)生(せい)命(めい)観(かん)と親(しん)鸞(らん)の生(せい)命(めい)観(かん)~

帰(き)依(え) 薫(くん)龍(りゅう) 師し・龍(りゅう)谷(こく)大(だい)学(がく)大(だい)学(がく)院(いん)(京(きょう)都(と)府(ふ))

沖(おき)縄(なわ)の民(みん)俗(ぞく)宗(しゅう)教(きょう)と浄(じょう)土(ど)真(しん)宗(しゅう)との関(かか)わり

帰(き)依(え) 啓(けい)龍(りゅう) 師し・龍(りゅう)谷(こく)大(だい)学(がく)

浄(じょう)土(ど)真(しん)宗(しゅう)と宗(しゅう)教(きょう)における社(しゃ)会(かい)とのつながり

帰(き)依(え) 啓(けい)龍(りゅう) 師し・龍(りゅう)谷(こく)大(だい)学(がく)大(だい)学(がく)院(いん)

沖(おき)縄(なわ)の浄(じょう)土(ど)真(しん)宗(しゅう)史しについて

帰(き)依(え) 剛(ごう)龍(りゅう) 師し・龍(りゅう)谷(こく)大(だい)学(がく)

仏ぶっ教きょう者しゃが果はたす役やく割わりの一いち考こう察さつ〜スポーツ選せん手しゅのセカンドキャリアに着ちゃく目もくして〜

帰(き)依(え) 剛(ごう)龍(りゅう) 師し・龍(りゅう)谷(こく)大(だい)学(がく)大(だい)学(がく)院(いん)

中(ちゅう)国(ごく)唐(とう)時(じ)代(だい)における『仏(ぶっ)説(せつ)観(かん)無(む)量(りょう)寿(じゅ)経(きょう)疏(そ)』の比(ひ)較(かく)研(けん)究(きゅう)~善(ぜん)導(どう)大(だい)師(し)と嘉(か)祥(しょう)大(だい)師(し)の立(たち)場(ば)から~

帰(き)依(え) 龍(りゅう)照(しょう) 師し・岡(おか)山(やま)大(だい)学(がく)大(だい)学(がく)院(いん)(岡(おか)山(やま)県(けん))

清(きよ)沢(ざわ)満(まん)之(し)の『宗(しゅう)教(きょう)哲(てつ)学(がく)骸(がい)骨(こつ)』における有(ゆう)限(げん)統(とう)一(いつ)論(ろん)・無(む)限(げん)統(とう)一(いつ)論(ろん)の研(けん)究(きゅう)

帰(き)依(え) 龍(りゅう)照(しょう) 師し・岡(おか)山(やま)大(だい)学(がく)大(だい)学(がく)院(いん)

親(しん)鸞(らん)と袋(たい)中(ちゅう)の地(ち)方(ほう)布(ふ)教(きょう)における念(ねん)仏(ぶつ)興(こう)隆(りゅう)の比(ひ)較(かく)研(けん)究(きゅう)~東(とう)国(ごく)・二(に)十(じゅう)四(よ)輩(はい)と琉(りゅう)球(きゅう)・エイサー念仏踊りを中(ちゅう)心(しん)に~

帰(き)依(え) 龍(りゅう)照(しょう) 師し・浄(じょう)土(ど)真(しん)宗(しゅう)本(ほん)願(がん)寺(じ)派(は)(西(にし)本(ほん)願(がん)寺(じ))・学(がっ)階(かい)(助(じょ)教(きょう))

沖おき縄なわ市しにおける『「琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたり」のまち宣せん言げん』前ぜん夜や

 帰き依え 龍りゅう照しょう 師し・沖おき縄なわ市し文ぶん化か協きょう会かい(沖おき縄なわ市し)『文ぶん化かの窓まど第だい48号ごう(鼓こ動どうする美チュら島しま文ぶん化か)』

 私わたしが、沖おき縄なわ市し最さい古この寺じ院いん・球きゅう陽よう寺じ(コザ本ほん願がん寺じ〈以い後ご、当とう院いん〉)へ養よう子し(副ふく住じゅう職しょく〈寺じ院いん後こう継けい者しゃ〉)として迎むかえられ、早はやいもので26年ねんの歳さい月げつが流ながれる。

 ここだけの話はなし、当とう院いん以い外がいからも、京きょう都と・大おお阪さか・福ふく岡おかなど、自うぬ惚ぼれだが寺じ院いんへの養よう子し縁えん組ぐみは引ひく手て数あま多ただった。

 なぜ、その中なかから、最さい果はて且かつ、縁えんもゆかりもない沖おき縄なわを選えらんだのか?

 理り由ゆうは、『美チュら島しま・美チュら海うみ・美チュら空スラ・美チュら人ンチュ』、沖おき縄なわを愛あいしてやまない多おおくの人ひと々びとと同どう様よう、コバルトブルーの光ひかり輝かがやく島しま・海うみ・空そら・人ひとに魅み了りょうされたからに外ほかならない。

 今いまさら時じ効こうであるが、決けっして、『美チュら寺ティラ』と呼よばれて久ひさしい当とう院いんの養よう子し縁えん組ぐみに希き望ぼうの志しを抱いだいたからではない。

 当とう時じ、私わたしの所しょ属ぞくする日に本ほん最さい大だいの宗しゅう派は・浄じょう土ど真しん宗しゅう本ほん願がん寺じ派は(西にし本ほん願がん寺じ)では、沖おき縄なわをして、仏ぶっ教きょう・浄じょう土ど真しん宗しゅうにおける未み開かいの地ちを暗あん黙もくのうちに意い味みする『沖おき縄なわ開かい教きょう地ち』と呼よんでいた。

 その布ふ教きょう・伝でん道どうの極きわみである開かい教きょうの使し命めい感かんに燃もえていたわけでもない。

 当とう然ぜん、当とう院いんの養よう子し縁えん組ぐみについて、周しゅう囲いは大だい反はん対たい。

 唯ゆい一いつの理り解かい者しゃは、妻さい子しのみであった。

 といっても、子こ供ども達たちは男おとこの子こ3人にんの小しょう学がく2年ねん生せい・保ほ育いく園えん生せい・乳にゅう児じの物もの心ごころつくかつかないか。

 妻つまは、詳しょう細さいについて何なにも聞きかず、

「自じ分ぶんが決きめたことならいいんじゃない?」

と豪ごう快かいに笑わらい飛とばしていた。

 今いま思おもえば、幼おさない子こ供ども達たちを抱かかえ、教きょう育いく・収しゅう入にゅう・将しょう来らいなど、相そう当とう、不ふ安あんであっただろうに。

 彼かの女じょには、今こん日にちに至いたるまで、苦く労ろうのかけ通どおしである。

 しかし、私わたしにとって、この彼かの女じょからの根こん拠きょのない信しん頼らいと楽らっ観かん的てきな性せい格かくが、不ふ思し議ぎなご縁えんとでもまとめておきたく、結けっ果か、当とう院いんへ入にゅう寺じする決けっ定てい打だとなった。

 すでに、僧そう侶りょとして、得とく度ど(僧そう侶りょ免めん許きょ)・教きょう師し(住じゅう職しょく免めん許きょ)・学がく階かい(学がく問もん免めん許きょ)・布ふ教きょう使し(説せっ教きょう免めん許きょ)を取しゅ得とくしていたので、いずれはエリート僧そう侶りょを靡なびかせ、沖おき縄なわ市し最さい古このご寺じ院いん様さまのご住じゅう職しょく様さまとして、輝かがやかしいバラ色いろの人じん生せいを送おくる・・・はずであった。

 この

「はずであった」

がなければ、『文ぶん化かの窓まど』の依い頼らい原げん稿こうの表ひょう題だいには行いきつかない。

 ここからが、ユタ琉球・沖縄祭事者などの先せん生せいが言いい伝つたえる、『祖そ先せん崇すう拝はいに琉りゅう球きゅうなし』のハイレベルな琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりとの出で会あいである。

 忘わすれもしない、平へい成せい11(1999)年ねん4月がつ1日にちのこと、故こ郷きょうの岡おか山やま空くう港こうから那な覇は空くう港こうに着つき、沖おき縄なわ自じ動どう車しゃ道どうから真まっっすぐ当とう院いんへ到とう着ちゃくした矢や先さき、養よう父ふである先せん代だい(当とう院いん第だい17代だい住じゅう職しょく・帰き依え宗しゅう信しん師し)から、

「大たい変へん、申もうし訳わけないが、すぐ、沖おき縄なわ市し胡ご屋やの十じゅう三さん回かい忌きにお参まいりしてください」

とのご依い頼らい。

 私わたしは玄げん関かんに荷に物もつを置おくや、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりの教きょう育いくを受うけないまま、見みず知しらずの沖おき縄なわのニンチスーコーご法事の洗せん礼れいを受うけることになった。

 今いま思おもえば、私わたしもそうであるが、先せん代だいこそ恐おそれを知しらないチューバー強者である。

 このニンチスーコーご法事にご親しん族ぞくとしてご出しゅっ席せきされていたのが、コザ・美み里さとはもとより、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりを熟じゅく知ちする大おお御ご所しょ・高たか江え洲す豊とよ子こ先せん生せいであった。

 この稀け有うなる出で会あいが、今こん後ご、私わたしのライフワークである『めざせ!ウチナーンチュ沖縄県民!』に功こうを奏そうすることになる。

 十じゅう三さん回かい忌きの読ど経きょうが終しゅう了りょうすると、豊とよ子こ先せん生せいから、

「ヒジャイヌウグヮン左の御願もウヌゲーサビラお願いします」

とのお言こと葉ば。

 今いまの私わたしであれば、

「ナラーチキミソーリヨーサイ教えてください」

とでもご指し導どういただくのであろうが、如何いかんせん、沖おき縄なわに到とう着ちゃくホヤホヤのこと、正しょう直じきに前ぜん述じゅつの経けい緯い、事ことの次し第だいをお伝つたえ申もうし上あげ、

「ヒジャイヌウグヮン左の御願もウヌゲーサビラお願いします」

の意い味みをお尋たずねした。

 豊とよ子こ先せん生せいは、

「あ~、ナイチャー県外の方ね?」

と私わたしに目め配くばりし、意い図と的てきに標ひょう準じゅん語ごを使つかってくださった。

 「沖おき縄なわでは、ヒジャイ左がニジリ右でニジリ右がヒジャイ左なのですよ」

と笑わらいを堪こらえながらご説せつ明めいをいただいたことが懐なつかしい。

 「はっ?ヒジャイ左がニジリ右でニジリ右がヒジャイ左?余よ計けいに意い味み不ふ明めいなのですが?」

 この説せつ明めいが説せつ明めいにならず、さらに説せつ明めいが必ひつ要ような点てんこそ、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりの醍だい醐ご味みである。

 詳しょう細さいは、お仏ぶつ壇だんに向むかう私わたしからの右みぎ側がわは、ウヤファーフジご先祖からの左ひだり側がわにあたるということなのだが、私わたしはこのとき、目めから鱗うろこが落おちるような思おもいであった。

 これって、もしかしたら、印イン度ド・中ちゅう国ごく・日に本ほんに伝でん播ぱする、仏ぶっ教きょう・浄じょう土ど思し想そうそのままではないかと。

 私わたし達たちが住すむ世せ界かいのことを穢え土ど・現げん世せ、シマクトゥバ沖縄方言ではイチミ今生といい、ウヤファーフジご先祖を広こう義ぎで含ふくむ、仏ほとけ様さまが住すむ世せ界かいのことを浄じょう土ど・来らい世せ、シマクトゥバ沖縄方言ではグソー後生というが、この迷まよいの世せ界かいである前ぜん者しゃと悟さとりの世せ界かいである後こう者しゃを此し岸がん(こちらの岸きし〈三さん途ずの川かわを挟はさむ私わたし達たちの立たつ岸きし辺べ〉)と彼ひ岸がん(あちらの岸きし〈三さん途ずの川かわを挟はさむ仏ほとけ様さまの立たつ岸きし辺べ〉)に譬たとえる二に元げん論ろんこそ、仏ぶっ教きょう・浄じょう土ど思し想そうにおける基き本ほん的てき救きゅう済さいの世せ界かい観かんである。

 つまり、二に元げん論ろんとは迷まよう者ものと悟さとる者ものの成じょう仏ぶつにおける相そう互ご関かん係けいに外ほかならない。

 私わたしの脳のう裏りには、走そう馬ま灯とうの如ごとく、専せん門もん分ぶん野やとする哲てつ学がく・宗しゅう教きょう学がく・仏ぶっ教きょう学がく・真しん宗しゅう学がく(浄じょう土ど真しん宗しゅう学がく)の総そう論ろん・各かく論ろんが駆かけ巡めぐる思おもいであった。

 言いい換かえれば、

「ヒジャイ左がニジリ右でニジリ右がヒジャイ左」

とは、右みぎ側がわの定てい義ぎは、自じ分ぶんの右みぎ側がわであり相あい手ての左ひだり側がわでもある。

 左ひだり側がわの定てい義ぎは、自じ分ぶんの左ひだり側がわであり相あい手ての右みぎ側がわでもある。

 ここに加くわえることの

「グソーヌヒジャイ後生の左・ウヤファーフジヌヒジャイご先祖の左」

という、自じ己この右みぎ側がわを優ゆう先せんするのでなく、他た者しゃの左ひだり側がわを優ゆう先せんするとき、自おのずから相あい手てを重おもんじ畏い敬けいする思おもいやりの心こころが芽め生ばえてくる。

 つまり、若わか者もの語ごでいう『自じ己こ中ちゅう(自じ己こ中ちゅう心しん)』ではないということであり、これを専せん門もん用よう語ごでは『供く養よう』という。

 「点てんと点てんがつながれば線せんになり、線せんと線せんがつながれば面めんになり、面めんと面めんがつながれば箱はこになり、箱はこになれば何なにかの役やくに立たつ」

とは恩おん師しから賜たまわる『一いち意い専せん心しん・一いち意い学がく心しん』の教きょう育いく格かく言げんである。

 豊とよ子こ先せん生せいには深ふか々と一いち礼れいを申もうし上あげ、このとき、私わたしは、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりの輝かがやかしい可か能のう性せいと私わたしにしかできない宗しゅう教きょう哲てつ学がく者しゃ・僧そう侶りょとしての沖おき縄なわにおける使し命めいを恩おん師しから賜たまわる教きょう育いく格かく言げんにつなげつつ、沖おき縄なわに存そん在ざいする確たしかな手て応ごたえを得えた。

 現げん在ざい、私わたしは、沖おき縄なわ県けん立りつ学がっ校こう・沖おき縄なわ県けん民みん大だい学がく・沖おき縄なわ県けん警けい察さつなど、多た種しゅ多た様ようの講こう演えん会かい講こう師しを拝はい命めいするが、基き本ほんは、スタンドポジションを自じ己こに置おかず他た者しゃに置おく、この

「ヒジャイ左がニジリ右でニジリ右がヒジャイ左」

の東ひがしアジア圏けん固こ有ゆうの二に元げん論ろん思し想そうを根こん底ていに、『人ひとと人ひととの和わ合ごう』・『ウヤファーフジトゥウヤヌグウンご先祖と親のご恩』の人にん間げん教きょう育いく論ろん、『琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわ論ろん』を固こ有ゆうの演えん題だいとして展てん開かいしている。

 豊とよ子こ先せん生せいには、同どう時じに、

「球きゅう陽よう寺じはコザの古こ刹さつなので、無む理りをしないよう、『ヨンナーゆっくり ヨンナーゆっくり』ですよ」

とのありがたい座ざ右ゆうの銘めいも賜たまわった。

 余よ談だんだが、私わたしはつい最さい近きんまで、沖おき縄なわに多おおい名みょう字じの『與よ那な覇は(与よ那な覇は)さん』・『與よ那な城しろ(与よ那な城しろ)さん』の『與よ那な(与よ那な)』の語ご源げんは、この『ヨンナーゆっくり=ヨナ=與よ那な(与よ那な)』に由ゆ来らいすると勝かっ手てに思おもい込こんでいた。

 それほど、私わたしにとって、『ヨンナーゆっくり』は、これからの沖おき縄なわにあって、私わたしが発はっ揮きするところ、『「琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたり」のまち宣せん言げん』のきっかけとなるクガニクトゥバ黄金言葉であった。

 異い文ぶん化かに飛とび込こんだ私わたしにとって、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのお葬そう式しき・ご法ほう事じ・年ねん中じゅう行ぎょう事じは『沖おき縄なわ開かい教きょう地ち』といえども専せん門もん分ぶん野やであるはずだった。

 理り由ゆうは、何なんといっても私わたしには免めん許きょがあり、役やく職しょくがあり、もっと言いわせていただければ、学がく歴れきもあり、素すば晴らしい多おおくの恩おん師しからご指し導どういただいた経けい験けんもあったからである。

 しかし、この思おもいは、沖おき縄なわ初しょ日にちに木こっ端ぱ微み塵じん、豊とよ子こ先せん生せいを始はじめ、日ひ々び、出で会あう人ひと々びと・先せん生せいのトートーメー琉球・沖縄位牌・ヒヌカン火之神などの仏ぶつ事じ・神しん事じに対たいする教きょう養ようレベルはあまりに高たかく、私わたしはいつしか無む力りょくの僧そう侶りょと化かしていた。

 人じん生せい初はつの大おおきな挫ざ折せつを味あじわった私わたしではあったが、恩おん師しの曰いわく、

「問といいを持もち続つづければ、答こたえは自おのずと飛とび込こんでくる」

の如ごとく、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりを学まなびたいという向こう学がくの志しは、挫ざ折せつと反はん比ぴ例れいし、日ひ々び、増ますばかりであった。

 そのような矢や先さき、与よ那な節ぶしで有ゆう名めいな国くに頭がみ村そん与よ那な(偶ぐう然ぜん、ヨンナーゆっくりの与よ那なとダブるのが不ふ思し議ぎなご縁えん?)のお葬そう式しきにお参まいりさせていただいたときのこと。

 琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわの仏ぶつ事じ・神しん事じに明あかるい地ち域いきの名めい士し・宮みや城ぎ作なり子こ先せん生せいから、

「お墓はかのメージュク前卓にシルイフェー白木位牌を置おきますか?」

とのお尋たずねをいただいた。

 「ん?メージュク前卓?シルイフェー白木位牌?」

 メージュク前卓に至いたっては、龍りゅう谷こく大だい学がく・京きょう都と女じょ子し大だい学がくなどの仏ぶっ教きょう系けい大だい学がくで習ならう難なん読どく漢かん字じの一ひとつである。

 沖おき縄なわ本ほん島とう北ほく部ぶの一いち部ぶ地ち域いきでは、お葬そう式しきに立たち会あうことができない会かい葬そう者しゃのため、2個こあるシルイフェー白木位牌のうち、一ひと回まわり小ちいさなノイフェー野位牌をシンジュークニチー四十九日まで墓ぼ前ぜんに仮かり安あん置ちするしきたりが散さん見けんできる。

 直ちょく接せつ、地じ面めんに置おくと失しつ礼れいに当あたるという畏い敬けいの念ねんから、白しら木き机づくえの上うえを利り用ようするのだが、この白しら木き机づくえは墓ぼ前ぜんに準じゅん備びされることから、専せん門もん用よう語ごでは、『墓ぼ前ぜんの白しら木き机づくえ(卓たく)=前まえ卓じょく』という。

 前まえ卓じょくは、『まえたく』と読よみたいところであるが、中ちゅう国ごくの呉ご音おん・漢かん音おん・唐とう音おんなどを鑑かんがみ、行いきつくところ『まえじょく』と読よむのが正せい式しきである。

 同どう語ごに、『仏ぶつ前ぜんの上うえの机つくえ(卓たく)=上うわ卓じょく』といい、上うわ卓じょくも『うえたく』と読よみたいところであるが『うわじょく』と読よまなければならない。

 この辺あたりが仏ぶっ教きょう・浄じょう土ど真しん宗しゅうをして難なん解かいと言いわしめる所以ゆえんであろう。

 とにかく、専せん門もん用よう語ごの読よみ方かた一ひとつにしても一ひと筋すじ縄なわではいかないのが仏ぶっ教きょう・浄じょう土ど真しん宗しゅうである。

 ところが、な・な・なんと、沖おき縄なわではこの難なん読どく漢かん字じが普ふ通つうに読よめるのである。

 ユタ琉球・沖縄祭事者などの先せん生せいだけでなく、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりに詳くわしい方かた々がたであれば、日にち常じょう会かい話わの端はし々ばしに出でてくるレベルなのである。

 解かい説せつさせていただかねばなるまい、

「お墓はかのメージュク前卓にシルイフェー白木位牌を置おきますか?」

のメージュク前卓は、シマクトゥバ沖縄方言にあって、『メー前=まえ=前まえ』・『ジュク卓=じょく=卓たく』の音おん声せい変へん換かんであり、ある種しゅの訛なまりとのこと。

 つまり、メージュク前卓はそのまま前まえ卓じょくとなり、しかも難なん読どく漢かん字じでありながら、沖おき縄なわでは前まえ卓じょくを『まえじょく』と読よむことを前ぜん提ていに『メージュク前卓』と音おん声せい変へん換かんされているのである。

 さらに、この『メー前』は敬けい語ごの最さいたるものであることにも気きづく。

 読どく者しゃの皆みな様さまにもウチアタイ思い当たりしていただけることであろう。

 一いち例れいを申もうし上あげれば、『タンメー祖父』・『ウンメー祖母』・『トートーメー琉球・沖縄位牌』、とくに『トートーメー琉球・沖縄位牌=尊御前トートーメー』という、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりのカタカナ表ひょう記きを漢かん字じ変へん換かんできるのは、現げん代だいの沖おき縄なわにあって、私わたしや当とう院いんの住じゅう職しょく・副ふく住じゅう職しょくのみがお家いえ芸げいとする学がく問もん的てき成せい果かである。

 これはとても重じゅう要ようなことで、安あん易いにトートーメーとカタカナ表ひょう記きしてしまうと、『トートーメー=イフェー位牌』と思おもわれがちだが、『トートーメーの歌うた』にもあるよう、『トートーメー=ウチチお月様』の意い訳やくにも該がい当とうし、つまり、トートーメーには、イフェー位牌とウチチお月様の両りょう意いが存そん在ざいすることになる。

 初しょ心しん者しゃにしてみれば、この両りょう意いが存そん在ざいすることは、学がく問もん上じょう、基き礎そ・応おう用ようの妨さまたげになる可か能のう性せいがある。

 この点てん、カタカナ表ひょう記きを漢かん字じ変へん換かんしておけば、本ほん来らい、印イン度ド・中ちゅう国ごく由ゆ来らいの琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりが漢かん字じ表ひょう記きであったことに整せい合ごうし、その語ご源げん・意い訳やくにも誤ご解かいが生しょうじにくくなる。

 もちろん、カタカナ表ひょう記きの長ちょう所しょは、親したしみやすさであることは百ひゃくも承しょう知ちしつつ、カタカナ・漢かん字じを学がく問もん上じょうの車くるまの両りょう輪りんの如ごとく活かつ用ようさせていただいている。

 もとい、『タンメー祖父』・『ウンメー祖母』・『トートーメー琉球・沖縄位牌』の『メー前』が敬けい語ごの最さいたるものであると前ぜん述じゅつしたが、誠まこと、重じゅう要ような言こと葉ばには『メー前』を多おおく使し用ようするのがシマクトゥバ沖縄方言の特とく徴ちょうである。

 余よ談だんであるが、旧きゅう暦れき朔つい日たち・十じゅう五ご日にちの『ヒヌカン火之神』やヤシチヌウグヮン屋敷の御願の『ジーチヌカン土地の神』・『トゥクヌカン床の神』・『フールヌカン便所の神』も、そのままでは、火ひの神かみ・土と地ちの神かみ・床とこの神かみ・便べん所じょの神かみと呼よび捨すてにしていることから、敬けい語ごを使し用ようするとき、『ミーヒヌカンガナシーメー御火之神加那志前』・『ミージーチヌカンガナシーメー御土地之神加那志前』・『ミートゥクヌカンガナシーメー御床之神加那志前』・『ミーフールヌカンガナシーメー御便所之神加那志前』と変へん換かんされ、ここでも『メー前』が補ほ足そくされる。

 ナイチャー県外の方の私わたしからすれば、沖おき縄なわでは、重じゅう要ようなことや敬うやまうとき、いつも『メー・メー・メー』、まるでヤギやヒツジ牧ぼく場じょうを散さん策さくするような心こころの癒いやしを感かんずる。

 逆ぎゃくに、『メー前』を耳みみにすると、緊きん張ちょうしつつ、背せ筋すじが伸のびる思おもいでもある。

 そのような『メー前』のつく『メージュク前卓』を作なり子こ先せん生せいからお聞ききしたとき、この解かい説せつは、如何いかなる沖おき縄なわのハイレベルな教きょう養ようであっても、根こん底ていには、哲てつ学がく・宗しゅう教きょう学がく・仏ぶっ教きょう学がく・真しん宗しゅう学がくの素そ養ようが必ひっ須すであり、この経けい験けんから、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりにあって、私わたしにしかできない学がく問もん上じょうの着ちゃく眼がん点てんに気きづかせていただいた。

 あるときは、恩おん師しである琉りゅう球きゅう料りょう理り研けん究きゅう家かの渡と口ぐち初はつ美み先せん生せいより、ウチヂヘイシ一部返しについてご指し導どうを賜たまわったことがある。

 初はつ美み先せん生せいから、

「ウチヂヘイシ一部返しを知しっていますか?」

のお尋たずねに、私わたしは、

「ゼニガタヘイジ銭形平次なら知しっています!」

とお答こたえし、大だい爆ばく笑しょうしていただいたことを覚おぼえている。

 初はつ美み先せん生せいは万ばん事じに寛かん容ような方かたで、基き礎そ・応おう用よう力りょくに富とみ、いつもの仰おおせには、

「沖おき縄なわのしきたりには、『できる人ひと用ようのしきたり』も『できない人ひと用ようのしきたり』も両りょう方ほうあるので、言いったもん勝がち、しっかり勉べん強きょうして、その人ひとその人ひとにあったアドバイスで人ひと助だすけをしてください」

とのクガニクトゥバ黄金言葉を賜たまわった。

 初はつ美み先せん生せいは、私わたしの沖おき縄なわにおける母ははである。

 現げん代だいにあって、ウチヂヘイシ一部返しの直ちょく訳やく・意い訳やくに行いきつく方かたはとても稀け有うである。

 これも、私わたしや当とう院いんの住じゅう職しょく・副ふく住じゅう職しょくの学がく問もん的てき成せい果かである。

 両りょう訳やくは、『ウチヂヘイシ一部返し=一いち部ぶ返がえし=一いち部ぶ交こう換かん』となる。

 このとき、陥おちいりやすい点てんがあることをご紹しょう介かいさせていただきたい。

 一いち部ぶ交こう換かんであれば、重じゅう箱ばこの中なか身みを抜ぬき取とり、新あたらしい品しなを追つい加かすれば事ことは足たりる。

 ところが、ここでも琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりが難なん解かいである点てんが垣かい間ま見みえる。

 重じゅう箱ばこの中なか身みをいきなり抜ぬき取とると、ほんの一いっ瞬しゅん、交こう換かんまでの間あいだ、一いっ品ぴんが無なくなることになり、ユタ琉球・沖縄祭事者などの先せん生せいから、

「ウグヮンブスク御願不足どーやー!」

との不ふ足そくをご指し摘てきされる。

 この不ふ足そくのご指し摘てきは、『一いっ品ぴんが無なくなる=マイナス1個こが発はっ生せいする=不ふ足そくが発はっ生せいする』の琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりの方ほう程てい式しきである。

 このことを未み然ぜんに防ふせぐため、先せん人じんのジンブン教養として、ウチヂヘイシ一部返しするとき、重じゅう箱ばこの中なか身みをいきなり抜ぬき取とるのではなく、一いっ品ぴんを重じゅう箱ばこの上うえに『一いち部ぶ返がえし』て、『マイナス1個こが発はっ生せい』しないよう配はい慮りょし、抜ぬき取とった隙す間きまに交こう換かんの新あたらしい一いっ品ぴんを追つい加かし、重じゅう箱ばこの中なか身みの総そう数すうがプラス1個こになった状じょう態たいから、抜ぬき取とった中なか身みをウサンデー下げ膳するという手て間まのかかる手て順じゅんを行おこなう。

 この『一いち部ぶ返がえし』が『ウチヂヘイシ一部返し』と呼よばれる所ゆえ以んである。

 行いきつくところ、ウグヮンブスク御願不足にならないよう、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりはどこまでも気き遣づかいと愛あい情じょうの作さ法ほう・心こころ得えなのである。

 諸もろ々もろ、いつしか、このような私わたしが琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりの講こう師しとなり、県けん内ない新しん聞ぶんの連れん載さいを承うけたまわり、来らい春しゅんには、5冊さつ目めの『トートーメー琉球・沖縄位牌百ひゃっ科か事じ典てん』を上じょう梓しさせていただけることになった。

 恐おそれ多おおきかな、ありがたきかな。

 本ほん当とうは、その上じょう梓しまで、このような琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりの素すば晴らしさを公おおやけの場ばで発はっ表ぴょうしないでおきたかったのが本ほん音ねである。

 しかし、沖おき縄なわ市し文ぶん化か協きょう会かいシマクトゥバ琉球・沖縄方言部ぶの元もと部ぶ長ちょう・私わたしの沖おき縄なわの父ちちである嘉か陽よう宗そう吉きち先せん生せいと事じ務む局きょく長ちょう・私わたしの沖おき縄なわの姉あねである岸きし本もとのりえ先せん生せいから、

「帰き依えさんよ~、沖おき縄なわ市し文ぶん化か協きょう会かいの『文ぶん化かの窓まど』よろしくね~!」

のお言こと葉ばを賜たまわり、大たい変へん、お世せ話わになっている手て前まえ、絶ぜっ対たいに断ことわれないご依い頼らいを賜たまわり、本ほん稿こうを喜よろこんで書かかせていただいたことを謹つつしんでご報ほう告こくさせていただきたい。

 末まっ筆ぴつには、紙し面めん登とう場じょうの先せん生せい方がたとこのお二ふた人りへのご恩おん返がえしとして、いずれは、

「沖おき縄なわ市しへ行いけば、球きゅう陽よう寺じ(コザ本ほん願がん寺じ)へ行いけば、帰き依えさんに会あえば、琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたりを勉べん強きょうできる、今いままでの悩なやみを解かい決けつできる」

と他ひ人と様さまの噂うわさになれるよう、私わたしは心こころの中なかで大おおいなる夢ゆめをいだいている。

 このことは、厚あつかましくも大おお風ぶ呂ろ敷しきを広ひろげさせていただけるのであれば、表ひょう題だいにもある~沖おき縄なわ市しにおける『「琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわのしきたり」のまち宣せん言げん』前ぜん夜や~と謳うたっても過か言ごんではないと自じ負ふしている。

 もちろん、球きゅう陽よう寺じ(コザ本ほん願がん寺じ)の養よう子しの私わたしとしては、相そう談だんを無む料りょうにさせていただきたい。

 ウチナーンチュ沖縄県民の皆みな様さまには、乞こうご期き待たいあれ!