論文


論文
親鸞の往生思想~現生正定聚を中心に~
帰依 薫龍 師・龍谷大学(京都府)
医療と宗教~科学的生命観と親鸞の生命観~
帰依 薫龍 師・龍谷大学大学院(京都府)
沖縄の民俗宗教と浄土真宗との関わり
帰依 啓龍 師・龍谷大学
浄土真宗と宗教における社会とのつながり
帰依 啓龍 師・龍谷大学大学院
沖縄の浄土真宗史について
帰依 剛龍 師・龍谷大学
仏教者が果たす役割の一考察〜スポーツ選手のセカンドキャリアに着目して〜
帰依 剛龍 師・龍谷大学大学院
中国唐時代における『仏説観無量寿経疏』の比較研究~善導大師と嘉祥大師の立場から~
帰依 龍照 師・岡山大学大学院(岡山県)
清沢満之の『宗教哲学骸骨』における有限統一論・無限統一論の研究
帰依 龍照 師・岡山大学大学院
親鸞と袋中の地方布教における念仏興隆の比較研究~東国・二十四輩と琉球・エイサーを中心に~
帰依 龍照 師・浄土真宗本願寺派(西本願寺)・学階(助教)
沖縄市における『「琉球・沖縄のしきたり」のまち宣言』前夜
帰依 龍照 師・沖縄市文化協会(沖縄市)『文化の窓第48号(鼓動する美ら島文化)』
私が、沖縄市最古の寺院・球陽寺(コザ本願寺〈以後、当院〉)へ養子(副住職〈寺院後継者〉)として迎えられ、早いもので26年の歳月が流れる。ここだけの話、当院以外からも、京都・大阪・福岡など、自惚れだが寺院への養子縁組は引手数多だった。なぜ、その中から、最果て且つ、縁もゆかりもない沖縄を選んだのか?理由は、『美ら島・美ら海・美ら空・美ら人』、沖縄を愛してやまない多くの人々と同様、コバルトブルーの光り輝く島・海・空・人に魅了されたからに外ならない。今さら時効であるが、決して、『美ら寺』と呼ばれて久しい当院の養子縁組に希望の志を抱いたからではない。当時、私の所属する日本最大の宗派・浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、沖縄をして、仏教・浄土真宗における未開の地を暗黙のうちに意味する『沖縄開教地』と呼んでいた。その布教・伝道の極みである開教の使命感に燃えていたわけでもない。当然、当院の養子縁組について、周囲は大反対。唯一の理解者は、妻子のみであった。といっても、子供達は男の子3人の小学2年生・保育園生・乳児の物心つくかつかないか。妻は、詳細について何も聞かず、「自分が決めたことならいいんじゃない?」と豪快に笑い飛ばしていた。今思えば、幼い子供達を抱え、教育・収入・将来など、相当、不安であっただろうに。彼女には、今日に至るまで、苦労のかけ通しである。しかし、私にとって、この彼女からの根拠のない信頼と楽観的な性格が、不思議なご縁とでもまとめておきたく、結果、当院へ入寺する決定打となった。すでに、僧侶として、得度(僧侶免許)・教師(住職免許)・学階(学問免許)・布教使(説教免許)を取得していたので、いずれはエリート僧侶を靡かせ、沖縄市最古のご寺院様のご住職様として、輝かしいバラ色の人生を送る・・・はずであった。この「はずであった」がなければ、『文化の窓』の依頼原稿の表題には行きつかない。ここからが、ユタなどの先生が言い伝える、『祖先崇拝に琉球なし』のハイレベルな琉球・沖縄のしきたりとの出会いである。忘れもしない、平成11(1999)年4月1日のこと、故郷の岡山空港から那覇空港に着き、沖縄自動車道から真っすぐ当院へ到着した矢先、養父である先代(当院第17代住職・帰依宗信師)から、「大変、申し訳ないが、すぐ、沖縄市胡屋の十三回忌にお参りしてください」とのご依頼。私は玄関に荷物を置くや、琉球・沖縄のしきたりの教育を受けないまま、見ず知らずの沖縄のニンチスーコーの洗礼を受けることになった。今思えば、私もそうであるが、先代こそ恐れを知らないチューバーである。このニンチスーコーにご親族としてご出席されていたのが、コザ・美里はもとより、琉球・沖縄のしきたりを熟知する大御所・高江洲豊子先生であった。この稀有なる出会いが、今後、私のライフワークである『めざせ!ウチナーンチュ!』に功を奏することになる。十三回忌の読経が終了すると、豊子先生から、「ヒジャイヌウグヮンもウヌゲーサビラ」とのお言葉。今の私であれば、「ナラーチキミソーリヨーサイ」とでもご指導いただくのであろうが、如何せん、沖縄に到着ホヤホヤのこと、正直に前述の経緯、事の次第をお伝え申し上げ、「ヒジャイヌウグヮンもウヌゲーサビラ」の意味をお尋ねした。豊子先生は、「あ~、ナイチャーね?」と私に目配りし、意図的に標準語を使ってくださった。「沖縄では、ヒジャイがニジリでニジリがヒジャイなのですよ」と笑いを堪えながらご説明をいただいたことが懐かしい。「はっ?ヒジャイがニジリでニジリがヒジャイ?余計に意味不明なのですが?」。この説明が説明にならず、さらに説明が必要な点こそ、琉球・沖縄のしきたりの醍醐味である。詳細は、お仏壇に向かう私からの右側は、ウヤファーフジからの左側にあたるということなのだが、私はこのとき、目から鱗が落ちるような思いであった。これって、もしかしたら、印度・中国・日本に伝播する、仏教・浄土思想そのままではないかと。私達が住む世界のことを穢土・現世、シマクトゥバではイチミといい、ウヤファーフジを広義で含む、仏様が住む世界のことを浄土・来世、シマクトゥバではグソーというが、この迷いの世界である前者と悟りの世界である後者を此岸(こちらの岸〈三途の川を挟む私達の立つ岸辺〉)と彼岸(あちらの岸〈三途の川を挟む仏様の立つ岸辺〉)に譬える二元論こそ、仏教・浄土思想における基本的救済の世界観である。つまり、二元論とは迷う者と悟る者の成仏における相互関係に外ならない。私の脳裏には、走馬灯の如く、専門分野とする哲学・宗教学・仏教学・真宗学(浄土真宗学)の総論・各論が駆け巡る思いであった。言い換えれば、「ヒジャイがニジリでニジリがヒジャイ」とは、右側の定義は、自分の右側であり相手の左側でもある。左側の定義は、自分の左側であり相手の右側でもある。ここに加えることの「グソーヌヒジャイ・ウヤファーフジヌヒジャイ」という、自己の右側を優先するのでなく、他者の左側を優先するとき、自ずから相手を重んじ畏敬する思いやりの心が芽生えてくる。つまり、若者語でいう『自己中(自己中心)』ではないということであり、これを専門用語では『供養』という。「点と点がつながれば線になり、線と線がつながれば面になり、面と面がつながれば箱になり、箱になれば何かの役に立つ」とは恩師から賜る『一意専心・一意学心』の教育格言である。豊子先生には深々と一礼を申し上げ、このとき、私は、琉球・沖縄のしきたりの輝かしい可能性と私にしかできない宗教哲学者・僧侶としての沖縄における使命を、恩師から賜る教育格言につなげつつ、沖縄に存在する確かな手応えを得た。現在、私は、沖縄県立学校・沖縄県民大学・沖縄県警察など、多種多様の講演会講師を拝命するが、基本は、スタンドポジションを自己に置かず他者に置く、この「ヒジャイがニジリでニジリがヒジャイ」の東アジア圏固有の二元論思想を根底に、『人と人との和合』、『ウヤファーフジトゥウヤヌグウン』の人間教育論・『琉球・沖縄論』を固有の演題として展開している。豊子先生には、同時に、「球陽寺はコザの古刹なので、無理をしないよう、『ヨンナー・ヨンナー』ですよ」とのありがたい座右の銘も賜った。余談だが、私はつい最近まで、沖縄に多い名字の『與那覇(与那覇)さん』・『與那城(与那城)さん』の『與那(与那)』の語源は、この『ヨンナー=ヨナ=與那(与那)』に由来すると勝手に思い込んでいた。それほど、私にとって、『ヨンナー』は、これからの沖縄にあって、私が発揮するところ、『「琉球・沖縄のしきたり」のまち宣言』のきっかけとなるクガニクトゥバであった。異文化に飛び込んだ私にとって、琉球・沖縄のお葬式・ご法事・年中行事は『沖縄開教地』といえども専門分野であるはずだった。理由は、何といっても私には免許があり、役職があり、もっと言わせていただければ、学歴もあり、素晴しい多くの恩師からご指導いただいた経験もあったからである。しかし、この思いは、沖縄初日に木端微塵、豊子先生を始め、日々、出会う人々・先生のトートーメー・ヒヌカンなどの仏事・神事に対する教養レベルはあまりに高く、私はいつしか無力の僧侶と化していた。人生初の大きな挫折を味わった私ではあったが、恩師の曰く、「問いを持ち続ければ、答えは自ずと飛び込んでくる」の如く、琉球・沖縄のしきたりを学びたいという向学の志は、挫折と反比例し、日々、増すばかりであった。そのような矢先、与那節で有名な国頭村与那(偶然、ヨンナーの与那とダブるのが不思議なご縁?)のお葬式にお参りさせていただいたときのこと。琉球・沖縄の仏事・神事に明るい地域の名士・宮城作子先生から、「お墓のメージュクにシルイフェーを置きますか?」とのお尋ねをいただいた。「ん?メージュク?シルイフェー?」メージュクに至っては、龍谷大学・京都女子大学などの仏教系大学で習う難読漢字の一つである。沖縄本島北部の一部地域では、お葬式に立ち会うことができない会葬者のため、2個あるシルイフェーのうち、一回り小さなノイフェーをシンジュークニチーまで墓前に仮安置するしきたりが散見できる。直接、地面に置くと失礼に当たるという畏敬の念から、白木机の上を利用するのだが、この白木机は墓前に準備されることから、専門用語では、『墓前の白木机(卓)=前卓』という。前卓は、『まえたく』と読みたいところであるが、中国の呉音・漢音・唐音などを鑑み、行きつくところ『まえじょく』と読むのが正式である。同語に、『仏前の上の机(卓)=上卓』といい、上卓も『うえたく』と読みたいところであるが『うわじょく』と読まなければならない。この辺りが仏教・浄土真宗をして難解と言わしめる所以であろう。とにかく、専門用語の読み方一つにしても一筋縄ではいかないのが仏教・浄土真宗である。ところが、な・な・なんと、沖縄ではこの難読漢字が普通に読めるのである。ユタなどの先生だけでなく、琉球・沖縄のしきたりに詳しい方々であれば、日常会話の端々に出てくるレベルなのである。解説させていただかねばなるまい、「お墓のメージュクにシルイフェーを置きますか?」のメージュクは、シマクトゥバにあって、『メー=まえ=前』・『ジュク=じょく=卓』の音声変換であり、ある種の訛りとのこと。つまり、メージュクはそのまま前卓となり、しかも難読漢字でありながら、沖縄では前卓を『まえじょく』と読むことを前提に『メージュク』と音声変換されているのである。さらに、この『メー』は敬語の最たるものであることにも気づく。読者の皆様にもウチアタイしていただけることであろう。一例を申し上げれば、『タンメー』・『ウンメー』・『トートーメー』、とくに『トートーメー=尊御前』という、琉球・沖縄のしきたりのカタカナ表記を漢字変換できるのは、現代の沖縄にあって、私や当院の住職・副住職のみがお家芸とする学問的成果である。これはとても重要なことで、安易にトートーメーとカタカナ表記してしまうと、『トートーメー=イフェー』と思われがちだが、『トートーメーの歌』にもあるよう、『トートーメー=ウチチ』の意訳にも該当し、つまり、トートーメーには、イフェーとウチチの両意が存在することになる。初心者にしてみれば、この両意が存在することは、学問上、基礎・応用の妨げになる可能性がある。この点、カタカナ表記を漢字変換しておけば、本来、印度・中国由来の琉球・沖縄のしきたりが漢字表記であったことに整合し、その語源・意訳にも誤解が生じにくくなる。もちろん、カタカナ表記の長所は、親しみやすさであることは百も承知しつつ、カタカナ・漢字を学問上の車の両輪の如く活用させていただいている。もとい、『タンメー』・『ウンメー』・『トートーメー』の『メー』が敬語の最たるものであると前述したが、誠、重要な言葉には『メー』を多く使用するのがシマクトゥバの特徴である。余談であるが、旧暦朔日・十五日の『ヒヌカン』やヤシチヌウグヮンの『ジーチヌカン』・『トゥクヌカン』・『フールヌカン』も、そのままでは、火の神・土地の神・床の神・便所の神と呼び捨てにしていることから、敬語を使用するとき、『ミーヒヌカンガナシーメー』・『ミージーチヌカンガナシーメー』・『ミートゥクヌカンガナシーメー』・『ミーフールヌカンガナシーメー』と変換され、ここでも『メー』が補足される。ナイチャーの私からすれば、沖縄では、重要なことや敬うとき、いつも『メー・メー・メー』、まるでヤギやヒツジ牧場を散策するような心の癒しを感ずる。逆に、『メー』を耳にすると、緊張しつつ、背筋が伸びる思いでもある。そのような『メー』のつく『メージュク』を作子先生からお聞きしたとき、この解説は、如何なる沖縄のハイレベルな教養であっても、根底には、哲学・宗教学・仏教学・真宗学の素養が必須であり、この経験から、琉球・沖縄のしきたりにあって、私にしかできない学問上の着眼点に気づかせていただいた。あるときは、恩師である琉球料理研究家の渡口初美先生より、ウチヂヘイシについてご指導を賜ったことがある。初美先生から、「ウチヂヘイシを知っていますか?」のお尋ねに、私は、「ゼニガタヘイジなら知っています!」とお答えし、大爆笑していただいたことを覚えている。初美先生は万事に寛容な方で、基礎・応用力に富み、いつもの仰せには、「沖縄のしきたりには、『できる人用のしきたり』も『できない人用のしきたり』も両方あるので、言ったもん勝ち、しっかり勉強して、その人その人にあったアドバイスで人助けをしてください」とのクガニクトゥバを賜った。初美先生は、私の沖縄における母である。現代にあって、ウチヂヘイシの直訳・意訳に行きつく方はとても稀有である。これも、私や当院の住職・副住職の学問的成果である。両訳は、『ウチヂヘイシ=一部返し=一部交換』となる。このとき、陥りやすい点があることをご紹介させていただきたい。一部交換であれば、重箱の中身を抜き取り、新しい品を追加すれば事は足りる。ところが、ここでも琉球・沖縄のしきたりが難解である点が垣間見える。重箱の中身をいきなり抜き取ると、ほんの一瞬、交換までの間、一品が無くなることになり、ユタなどの先生から、「ウグヮンブスクどーやー!」との不足をご指摘される。この不足のご指摘は、『一品が無くなる=マイナス1個が発生する=不足が発生する』の琉球・沖縄のしきたりの方程式である。このことを未然に防ぐため、先人のジンブンとして、ウチヂヘイシするとき、重箱の中身をいきなり抜き取るのではなく、一品を重箱の上に『一部返し』て、『マイナス1個が発生』しないよう配慮し、抜き取った隙間に交換の新しい一品を追加し、重箱の中身の総数がプラス1個になった状態から、抜き取った中身をウサンデーするという手間のかかる手順を行う。この『一部返し』が『ウチヂヘイシ』と呼ばれる所以である。行きつくところ、ウグヮンブスクにならないよう、琉球・沖縄のしきたりはどこまでも気遣いと愛情の作法・心得なのである。諸々、いつしか、このような私が琉球・沖縄のしきたりの講師となり、県内新聞の連載を承り、来春には、5冊目の『トートーメー百科事典』を上梓させていただけることになった。恐れ多きかな、ありがたきかな。本当は、その上梓まで、このような琉球・沖縄のしきたりの素晴しさを公の場で発表しないでおきたかったのが本音である。しかし、沖縄市文化協会シマクトゥバ部の元部長・私の沖縄の父である嘉陽宗吉先生と事務局長・私の沖縄の姉である岸本のりえ先生から、「帰依さんよ~、沖縄市文化協会の『文化の窓』よろしくね~!」のお言葉を賜り、大変、お世話になっている手前、絶対に断われないご依頼を賜り、本稿を喜んで書かせていただいたことを謹んでご報告させていただきたい。末筆には、紙面登場の先生方とこのお二人へのご恩返しとして、いずれは、「沖縄市へ行けば、球陽寺(コザ本願寺)へ行けば、帰依さんに会えば、琉球・沖縄のしきたりを勉強できる、今までの悩みを解決できる」と他人様の噂になれるよう、私は心の中で大いなる夢をいだいている。このことは、厚かましくも大風呂敷を広げさせていただけるのであれば、表題にもある~沖縄市における『「琉球・沖縄のしきたり」のまち宣言』前夜~と謳っても過言ではないと自負している。もちろん、球陽寺(コザ本願寺)の養子の私としては、相談を無料にさせていただきたい。ウチナーンチュの皆様には、乞うご期待あれ!




