縁起
縁起
コザ大龍柱(大龍柱)
縁起①
『雄龍虹・雌龍虹(夫婦虹)の縁起(帰依〈源〉 宗信 師・帰依 龍照 師)』
『コザ大龍柱(大龍柱)の縁起(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
小職、『論語』の知命(50歳)にして、未熟にも天職を知らず。
昭和33(1958)年、浄土真宗本願寺派(西本願寺〈京都府〉)より、ハワイ開教から沖縄開教への特命を拝受する。
世界中を布教するのは、開教使の宿命であろう。
年が改まり、沖縄県内にて、新寺建立のため、コザ本願寺布教 所(球陽寺〈コザ山 ライカム院 球陽寺《コザ本願寺[沖縄市]》〉)の寺基選定の行脚の途中、コザ市山里長田原(沖縄市山里)にて、突然、激しい雷雨に遭う。
雨宿りのため、小一時間、民家に軒を借りたことが功を奏したのであろう。
やがて、一面、天空は見事な快晴となり、かくも美しき、二重の虹が眼前する。
双輪、恰も、中国の故事『雄龍・雌龍(夫婦龍)』に酷似し、龍が天を駆けるよう、四方八方に輝き、喩えれば、正信念仏偈にある、
「攝取心光常照護 己能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆眞實信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇獲信見敬大慶喜 即横超截五惡趣(阿弥陀仏ノ光明ハ、イツモ衆生ヲ摂メ取ッテオ護リクダサル。スデニ無明ノ闇ハハレテモ、貪リヤ怒リノ雲ヤ霧ハ、イツモマコトノ信心ノ空ヲオオッテイル。シカシ、タトエバ日光ガ雲ヤ霧ニサエギラレテモ、ソノ下ハ明ルクテ闇ガナイノト同ジデアル。信ヲ得テ大イニヨロコビ敬ウ人ハ、タダチニ本願力ニヨッテ迷イノ世界ノキズナガ絶チ切ラレル。)」
の御文の如くである。
以来、二重の虹を『雄龍虹・雌龍虹(夫婦虹)』と敬称する。
小職・一行、感銘の最中、この仲睦まじき『雄龍虹・雌龍虹』を夫・妻のあるべき姿の結縁、寺院・門信徒のあるべき姿の仏縁と頂戴する。
また、帰依院釋光龍法師(源 宗仲 師〈当院・第1代住職《開基》〉)が、康元年間(1256年・1257年)~正元年間(1259年・1260年)・鎌倉時代、京都・嵐山にて、天女が舞うかの如く、美しき虹の輝下、金色の木像『阿弥陀如来』を賜り、その地に小さな草庵を結んだことが、親戚寺院・安徳院(臥龍山 安徳寺〈京都府〉)の開創とも口伝されている。
この虹のことを、『天女虹』とはよくいったものである。
重ねて、『雄龍虹・雌龍虹』・『天女虹』、各々、虹に纏わる当院の縁起は、古今より尊い寺縁であろう。
後日、この『雄龍虹・雌龍虹』の輝下にある、コザ市山里長田原を当院の寺基に選定する。
『雄龍虹・雌龍虹』は、現在、当院のコザ大龍柱(大龍柱)となり、兄弟龍である、首里城・那覇市若狭緑地の大龍柱、同様、沖縄県民の日々を見守っている。
今日、当院にあって、四季折々の二重の虹が眼前する。
歴代住職・副住職・寺族は、その都度、『雄龍虹・雌龍虹』・『コザ大龍柱』の縁起の如く、二重の虹を『コザ大龍柱』と畏敬し、合掌・礼拝する寺風が伝承されている。
『ハワイ・沖縄 開教録(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師 著、球陽寺〈コザ本願寺〉・出版部)』平成11(1999)年
阿弥陀如来
縁起②
『抱き阿弥陀(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
『コザ本願寺(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
今日にあって、誠に勿体なく、感謝に尽きる縁起である。
昭和50(1975)年、勝如上人(大谷 光照 師〈本願寺《龍谷山 本願寺[西本願寺 {京都府}]》・第23代宗主〉)が、球陽寺(コザ山 ライカム院 球陽寺〈コザ本願寺《沖縄市》〉)を巡回される。
当日、入仏法要の最中、小職が、内陣・宮殿に、本尊『阿弥陀如来』を安置する予定のところ、出勤の栄を賜る勝如上人、ご自身にて、差定(式次第)になき、直接、内陣・宮殿に、本尊『阿弥陀如来』を安置される。
まさか、勝如上人が、本尊『阿弥陀如来』を抱き上げてくださるとは・・・。
有り難き光景を目の当たりにした、当院・一同、大いに歓喜し、感涙の中、合掌・礼拝を申すに至る。
以来、当院・門信徒の誰言うとなく、本尊『阿弥陀如来』をして、『抱き阿弥陀』と尊称する。
後日、礼状を認め、当院・一行、本願寺に勝如上人を訪ねる。
謹んで、手土産の沖縄県産・モヅク(藻付)を献上する。
勝如上人より、馳走の礼を賜りつつ、当院の沖縄開教について、過分なる労いの言葉を頂戴する。
同時に、公称『コザ本願寺』を下付される。
念仏者として、最上の至福を感じたことが、昨今のように思い出される。
『ハワイ・沖縄 開教録(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師 著、球陽寺〈コザ本願寺〉・出版部)』平成11(1999)年
袋中上人
縁起③
『袋中上人(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
浄土真宗本願寺派(西本願寺〈京都府〉)・沖縄開教が、軌道に乗りつつあった、昭和49(1974)年、大学院の旧友より、夜分に電話を受ける。
要件は、1体の木像を球陽寺(コザ山 ライカム院 球陽寺〈コザ本願寺《沖縄市》〉)に奉納したいとのこと。
詳細を聞くに、『琉球・沖縄』に多大なる功績のあった、袋中上人(檀王法林寺〈朝陽山 栴檀王院 無上法林寺《京都府》〉・開基)と思しき木像ではあるまいか?
当然、粗相があっては申し訳なく、本来、安置するべき寺院への奉納を勧める。
ところが、四方八方、手を尽くすのだが、有縁の寺院では、奉納どころか、門前払いのやり取りが続いていたようである。
歴史ある寺院としては、至極、当然の対応であろう。
100年以上、昔から祀られていたとはいえ、どのような経緯で、旧友が言う、ウグヮンジュにウンチケーされていたのか、その出処すら不明な木像である。
安易には、引き受けられないのが現状であろう。
しかし、名立たる袋中上人への信仰が、寺院のみに在らず、『琉球・沖縄学』のレベルで畏敬されていることは、哲学(宗教哲学)・宗教学・仏教学・真宗学との純粋研究・比較研究に於いて、誠に興味深いことである。
後日、読経を厳修し、丁重に、木像の胎内願文の確認を行う。
記載中には、『弁蓮社入観良定袋中上人』と認められており、袋中上人の正式呼称を踏まえ、明らかに尊住格の筆跡と判断する。
この諸事情を考慮し、暫くの間、当院にて預かることにする。
浄土真宗と浄土宗、本来、宗派は異なるのだが、念仏を同じくする、浄土系ということで、小職も納得せざるを得ない。
奇遇にも、念仏踊りを起源とする、エイサー・始祖の袋中上人に所縁があるのか?
当院も、古今より、『エイサー精舎』と呼称されている。
これも尊い仏縁と頂戴し、袋中上人を厨子へと安置させていただく。
この間、有縁、以外、その他、近隣の浄土宗寺院にも、奉納・引き取りの問い合わせをするのだが、詰まるところ、当院での安置を奨励される結末となる。
こうなれば、致し方なく、物事は、良いように捉えたいものである。
以後、翌年より、袋中上人・命日に袋中忌法要を厳修し、当院・寺宝と定める。
ちなみに、当院も、長期に亘り、寺院の後継者問題があり、そのウグヮンジュ、同様、次世代に頭を悩める日々であった。
いつからともなく、毎朝の勤行の折、袋中上人の尊前で愚痴を溢すことも屡々。
そんな、ある日のこと、明け方であったか、夢か現の中、枕元に袋中上人が鎮座ましましていたような記憶がある。
微かな仰せには、
「吾、似通る学僧、貴院と法縁に結ばれるであろう」
とのこと。
それから世は、昭和から平成に変わり、当院は、住職後継者を迎えることになった。
よくよく、尋ねてみると、彼の誕生日は1月21日。
驚くことに、袋中上人の命日と同日ではないか。
1年は、365日もありながら、流石、奇遇に値するであろう。
まさに、
「吾、似通る学僧」
である。
現在、その住職後継者は住職となり、子弟も、浄土真宗最高学府の龍谷大学・龍谷大学大学院へと進学している。
しかも、3人の子弟、全員である。
小職、このことは何事にも代えがたく、ありがたきかな、袋中上人の夢告に心から感謝を申し上げる。
早いもので、今年の袋中忌法要は、第30回記念法要を迎える。
『ハワイ・沖縄 開教録(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師 著、球陽寺〈コザ本願寺〉・出版部)』平成11(1999)年
コザ大仏(
縁起④
『コザ大仏(阿弥陀如来)の縁起(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
T様(沖縄市)の言い伝えによると、『コザ大仏(阿弥陀如来)の縁起』は、タイの疫病退散を象徴する、『ルークサーオ大仏』の逸話からとのこと。
日本では、天保11(1840)年、タイ・バンコクのとある村々では、不治の病といわれる、大変な疫病が流行っていたようである。
やがて、その疫病は、村長の幼い娘のいのちをも脅かすようになったという。
近隣の村々の名立たる名医の往診も空しく、ついに、娘は病の床に臥せてしまった。
元々、その村には疫病退散の大仏信仰があり、村長は、村の民のため、娘のため、中国・福建省より、丈六仏(1丈6尺=4.8m)という見上げるような大仏を、村の大広場に鎮座ましました。
大仏は、その大きな身体からは想像もできない素早い動きで、村の民に薬石を配り歩き、煎じ方を説き、昼夜を問わず、早い回復を願ったという。
薬石の功あって、村の疫病は瞬く間に収まるも、村長の娘だけは、病の床に臥したまま、一向に回復の兆しがない。
そのことに、大変、心を痛めた村長は、雨の日も風の日も大仏に参拝し、奥様、共々、娘の回復を願ったという。
娘は、薬石を煎じて飲むことを頑なに拒んだ。
幼子としては、当然のこと。
「良薬は口に苦し」
とはよく言ったもので、効能ある薬石とはいえ、好んで飲める味ではなかったのであろう。
また、ありがたく、威厳ある大仏から薬石を勧められたとしても、その巨大さには、唯々、恐れ戦いて泣くばかり。
大仏は、暫く、思案した。
古の唄にある、
「大大仏は十方の民を救う 小大仏は一隅の民を救う」
と称えると、刹那にその大きな身体は、丈六仏の半分の更に半分に近い、五尺(1.5m)の小さな身体に変化した。
「十方の民」
とは万人を、
「一隅の民」
とは一人を表している。
五尺とは、村長の奥方、つまり、娘からして、母堂の身の丈であった。
大仏は、母親の姿となり、優しく笑みを浮かべながら、安心して泣き止んだ娘に、薬石を煎じて飲ませたという。
やがて、娘は全快の後、燥ぎながら大仏の懐に抱かれたとのこと。
これが、大大仏でありながら、小大仏と崇められる大仏の縁起である。
大きな大仏もありがたいものであり、小さな大仏も等しくありがたいものである。
娘、一人のため、その大きな身体を小さな身体に挺したことが、仏徳のなせる業であろう。
娘の全快を喜んだ村長は、このありがたい大仏を近隣の村々に紹介し、望めば、分け隔てなく、遷座を申し上げたという。
以来、180年の歴史を重ね、大仏は、タイ→スリランカ→中国→沖縄市へと尊い仏縁があり、今日、球陽寺(コザ山 ライカム院 球陽寺〈コザ本願寺《沖縄市》〉)に奉納の経緯となった。
その尊称は、タイ語で娘を意味する『ルークサーオ大仏』から、時代の移ろいの中、『コザ大仏』に変わっている。
その後も、『コザ大仏』は、大大仏に戻ることなく、小大仏のまま、幼子を救うこと頻り。
身の丈は、今でも、五尺、当時の容姿である。
近年、誰言うとなく、自信の辛い箇所、痛い箇所があるとき、『コザ大仏』の箇所を自身の箇所と見做し、丁寧に摩り撫でると、その辛さ、痛みは和らぐのだとか。
当院、浄土真宗本願寺派(西本願寺〈京都府〉)の寺院としては、あくまでも俗説と否定するも、人々の拝観は、今日も後を絶たない。
現在(令和3〈2021〉年)、『コザ大仏』は、日本最小の大仏であるとのこと。
昨今、新型コロナウイルス感染症との共存を余儀なくされる時代、参拝者・観光客、皆様が、当院の球陽門(仁王門)を潜り、『ルークサーオ大仏』を偲びつつ、娘を懐に抱れた当時の容姿、そのままの『コザ大仏』に合掌・礼拝する日々である。
『ハワイ・沖縄 開教録(帰依 宗信師・帰依 龍照師 著、球陽寺〈コザ本願寺〉・出版部)』平成11(1999)年
コザ仁王(金剛力士〈阿形〉)
コザ仁王(金剛力士〈吽形〉)
コザ龍宮神(龍宮神)
縁起⑤
『コザ仁王(金剛力士)の伝説 (帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
『コザ龍宮神(龍宮神)の伝説 (帰依 宗信 師・帰依 龍照 師)』
民話家・A様(沖縄市)の語り草によると、『コザ仁王(金剛力士)の伝説』・『コザ龍宮神(龍宮神)の伝説』は、親孝行な兄弟を偲ぶ昔話からとのこと。
・・・いつの頃やら、琉球王国・中山の越来間切・山内(沖縄市山里)に、ジラー・サンラーという仲の良い兄弟がおったそうな。
今でいうたら、ジラーが小学校の5・6年生、サンラーが小学校の1・2年生くらいかの~。
長男のタルーは、もう糸満へ奉公に行き、ウミンチュの手伝いをしとったみたいでの~。
この子らは、お父・お母の手伝いもようするし、ウティラカーの水汲みや撒き割りをしては、大人も顔負けするくらい、怪力の持ち主じゃったそうな。
それに加えて、とても利発じゃったとも聞いておる。
あるとき、ジラー・サンラーの住む村は、長い間、民から慕われた首里の地頭に代わり、薩摩から役人がやって来たんじゃそうな。
ま~、この新しい役人の強欲なことというたら。
いきなり、今までの年貢の倍を納めるよう、村の長に申しつけたんじゃそうな。
ジラー・サンラーのお父でもある村の長は、頭を抱え込んでしもうての~。
そりゃ~、困ったのは村の長だけじゃない、村の民も同じじゃった。
食うのにもやっとの貧しい日々じゃが、今までの地頭は、豊年祭のウサギムン・ウサンデーの分までは、絶対、取り上げはせんかった。
ところが、この役人は、次の年に撒かんといけん、田圃・畑の種まで取り上げようとしたんじゃと。
堪り兼ねた村の長は、年貢を改めるよう直訴したんじゃが、これが役人の逆鱗に触れての~。
その場で、惨いことに斬首されてしもうたんじゃそうな。
お父の亡骸を見た、ジラー・サンラーは、山・川が揺れるくらい大泣きしての~。
悔しゅうて、悔しゅうて、何度も、何度も、地面を踏みつけたんじゃと。
やがて、怒りのあまり、兄弟の顔・姿は、天部の仁王の形相になってしもうたんじゃそうな。
お父の四十九日の夜、ジラー・サンラーは、館へと出向き、再度、年貢を改めるよう、無念のお父の思いを役人に告げたんじゃと。
ところが、その孝行の思いとは裏腹に、
「親も親なら、子も子よの~。」
と、役人は、またしても、兄弟を斬首し、その亡骸は裏山の山桃の木の下に捨ててしもうたんじゃそうな。
そのことを伝え聞いた村の民は、大層、兄弟を憐れみ、山桃の木の傍らに、小さな祠を祀ってあげたんじゃと。
さて、それから暫くしてのこと、この役人が田圃・畑の見回りをしとるとき、たまたま、その祠の横を通ったんじゃそうな。
すると、どこからともなく、
「ジラー・サンラー、ニオーブトゥキ」
という大きなフェーシとともに、馬の上でふんぞり返っていた役人が、土の上にドスンと落っこちたんじゃと。
ま~、そのときの役人の姿というたら、滑稽なチョンダラーと見間違うほどじゃったそうな。
村の民は、腹を抱えたいのは、山々、それでもここで笑うたら、また年貢が上がるかもしれんと我慢しとったんじゃが、何度、役人様が馬に乗っても、
「ジラー・サンラー、ニオーブトゥキ」
というては、土の上にドスンと落っこちる始末での~。
とうとう、可笑しゅうて、堪えきれんようになった村の民が、
「見てみ~、こりゃ~、村の長からの罰じゃ」
「いやいや~、こりゃ~、ジラー・サンラーからの祟りじゃ~」
と口々に言うもんじゃから、赤ら顔になった役人は、馬にも乗れんまま、そそくさと急いで、自分の館に帰ったんじゃと。
その夜のこと、役人は落馬のことが悔やしゅうてならん。
自棄酒を鱈腹飲んで、え~、こんころもちで眠りこけていた丑三つのとき、その枕元に仁王の形相の兄弟が立っておったんじゃそうな。
そうじゃ~、その兄弟とはジラー・サンラーのことよ~。
ジラーは、口を大きく開けた仁王・阿形の顔と姿でな~。
サンラーは、口を固く閉じた仁王・吽形の顔と姿でな~。
ジラー「役人様~、明日も田圃・畑の見回りをしたらいいさ~」
サンラー「役人様~、そしたら、また、わしが馬から落としてやるさ~」
ジラー「役人様~、怖かったら、
サンラー「役人様~、やめても、また、わしが馬から落としてやるさ~」
ジラー・サンラー「ジラー・サンラー、ニオーブトゥキ」
ジラー・サンラー「ジラー・サンラー、ニオーブトゥキ」
これを一晩中、何度も、何度も、繰り返された役人は、とうとう、朝まで眠れんかったんじゃそうな。
これに懲りた役人は、翌朝、家来と荷物をまとめ、一目散で逃げ帰ったんじゃと。
それから、半月ほど経ってかの~?
ジラー・サンラーの村には、かつての地頭が戻ってくださり、昔のように平和な暮らしが訪れたんじゃそうな。
そうそう、そういえば、役人を懲らしめた、あの不思議なフェーシの
「ジラー・サンラー、ニオーブトゥキ」
じゃがの~。
ある人曰く、村のため、幼くして亡くなった兄弟の名前の『ジラー・サンラー』とも、怪力の持ち主の『ニオーブトゥキ』とも言い伝えられておるんじゃそうな。
暫くの間は、山桃の木の傍らにあった兄弟の祠じゃが、今は、どこらへんで祀られておるんじゃろうか~?
風の噂じゃがの~、球陽寺(コザ山 ライカム院 球陽寺〈コザ本願寺《沖縄市》〉)の球陽門(仁王門)にある『コザ仁王』となって、兄弟は、コザの民を見守っておるんじゃとか。
兄弟が水汲みした、ウティラカーは、『コザ龍宮神』となって、球陽寺の境内に淡々と湧き出でておるんじゃと。
いつの頃やら、これが『コザ仁王の伝説』・『コザ龍宮神の伝説』の昔話じゃと~・・・。
A様の語り草を懐かしく思い出しながら、今日も小職は、伽藍・境内の掃除の合間、『コザ仁王』・『コザ龍宮神』に合掌・礼拝している。
「ジラー・サンラー、ニオーブトゥキ」
「サリ、ウートートゥ、アートートゥ、ワッター、ウティラヲ、ミーマントーティ、クミソーリヨーサイ、サリ、ウートートゥ、アートートゥ(私たちの球陽寺を見守ってください)」
『ハワイ・沖縄 開教録(帰依 宗信 師・帰依 龍照 師 著、球陽寺〈コザ本願寺〉・出版部)』平成11(1999)年