球(きゅう)陽(よう)寺(じ)(コザ本(ほん)願(がん)寺(じ))

縁(えん)起(ぎ)

縁(えん)起(ぎ)


コザ夫婦めおと龍りゅう(夫婦めおと龍りゅう)

縁(えん)起(ぎ)①

 『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう(夫婦めおと虹にじ)の縁えん起ぎ(帰き依え〈源みなもと〉 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 『コザ大だい龍りゅう柱ちゅう(大だい龍りゅう柱ちゅう)の縁えん起ぎ(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 小しょう職しょく、『論ろん語ご』の知ち命めい(50歳さい)にして、未み熟じゅくにも天てん職しょくを知しらず。

 昭しょう和わ33(1958)年ねん、浄じょう土ど真しん宗しゅう本ほん願がん寺じ派は(西にし本ほん願がん寺じ)より、ハワイ開かい教きょうから沖おき縄なわ開かい教きょうへの特とく命めいを拝はい受じゅする。

 世せ界かい中じゅうを布ふ教きょうするのは、開かい教きょう使しの宿しゅく命めいであろう。

 年としが改あらたまり、沖おき縄なわ県けん内ないにて、新しん寺じ建こん立りゅうのため、コザ本ほん願がん寺じ布ふ教きょう 所しょ(球きゅう陽よう寺じ〈コザ山ざん ライカム院いん 球きゅう陽よう寺じ《コザ本ほん願がん寺じ[沖おき縄なわ市し]》〉)の寺じ基き選せん定ていの行あん脚ぎゃの途と中ちゅう、コザ市し山やま里ざと長なが田た原ばる(沖おき縄なわ市し山やま里ざと)にて、突とつ然ぜん、激はげしい雷らい雨うに遭あう。

 雨あま宿やどりのため、小こ一いち時じ間かん、民みん家かに軒のきを借かりたことが功こうを奏そうしたのであろう。

 やがて、一いち面めん、天あま空ぞらは見み事ごとな快かい晴せいとなり、かくも美うつくしき、二ふた重えの虹にじが眼がん前ぜんする。

 双そう輪りん、恰あたかも、中ちゅう国ごくの故こ事じ『雄ゆう龍りゅう・雌し龍りゅう(夫婦めおと龍りゅう)』に酷こく似じし、龍りゅうが天てんを駆かけるよう、四し方ほう八はっ方ぽうに輝かがやき、喩たとえれば、正しょう信しん念ねん仏ぶつ偈げにある、

「攝せっ取しゅ心しん光こう常じょう照しょう護ご 己い能のう雖すい破は無む明みょう闇あん 貪とん愛ない瞋しん憎ぞう之し雲うん霧む 常じょう覆ふ眞しん實じつ信しん心じん天てん 譬ひ如にょ日にっ光こう覆ふ雲うん霧む 雲うん霧む之し下げ明みょう無む闇あん獲ぎゃく信しん見けん敬きょう大だい慶きょう喜き 即そく横おう超ちょう截ぜつ五ご惡あく趣しゅ(阿あ弥み陀だ仏ぶつノ光こう明みょうハ、イツモ衆しゅ生じょうヲ摂おさメ取とッテオ護まもリクダサル。スデニ無む明みょうノ闇やみハハレテモ、貪むさぼリヤ怒いかリノ雲くもヤ霧きりハ、イツモマコトノ信しん心じんノ空そらヲオオッテイル。シカシ、タトエバ日にっ光こうガ雲くもヤ霧きりニサエギラレテモ、ソノ下したハ明あかルクテ闇やみガナイノト同おなジデアル。信しんヲ得えテ大おおイニヨロコビ敬うやまウ人ひとハ、タダチニ本ほん願がん力りきニヨッテ迷まよイノ世せ界かいノキズナガ絶たチ切きラレル。)」

の御ご文もんの如ごとくである。

 以い来らい、二ふた重えの虹にじを『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう(夫婦めおと虹にじ)』と敬けい称しょうする。

 小しょう職しょく・一いっ行こう、感かん銘めいの最さ中なか、この仲なか睦むつまじき『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう』を夫おっと・妻つまのあるべき姿すがたの結けつ縁えん、寺じ院いん・門もん信しん徒とのあるべき姿すがたの仏ぶつ縁えんと頂ちょう戴だいする。

 また、帰き依え院いん釋しゃく光こう龍りゅう法ほっ師し(源みなもと 宗そう仲ちゅう 師し〈当とう院いん・第だい1代だい住じゅう職しょく《開かい基き》〉)が、康こう元げん年ねん間かん(1256年ねん・1257年ねん)~正しょう元げん年ねん間かん(1259年ねん・1260年ねん)・鎌かま倉くら時じ代だい、京きょう都と・嵐あらし山やまにて、天てん女にょが舞まうかの如ごとく、美うつくしき虹にじの輝き下か、金こん色じきの木もく像ぞう『阿あ弥み陀だ如にょ来らい』を賜たまわり、その地ちに小ちいさな草そう庵あんを結むすんだことが、親しん戚せき寺じ院いん・安あん徳とく院いん(臥が龍りゅう山ざん 安あん徳とく寺じ〈京きょう都と府ふ〉)の開かい創そうとも口く伝でんされている。

 この虹にじのことを、『天てん女にょ虹こう』とはよくいったものである。

 重かさねて、『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう』・『天てん女にょ虹こう』、各おの々おの、虹にじに纏まつわる当とう院いんの縁えん起ぎは、古こ今こんより尊とうとい寺じ縁えんであろう。

 後ご日じつ、この『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう』の輝き下かにある、コザ市し山やま里ざと長なが田た原ばるを当とう院いんの寺じ基きに選せん定ていする。

 『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう』は、現げん在ざい、当とう院いんのコザ大だい龍りゅう柱ちゅう(大だい龍りゅう柱ちゅう)となり、兄きょう弟だい龍りゅうである、首しゅ里り城じょう・那な覇は市し若わか狭さ緑りょく地ちの大だい龍りゅう柱ちゅう、同どう様よう、沖おき縄なわ県けん民みんの日ひ々びを見み守まもっている。

 今こん日にち、当とう院いんにあって、四し季き折おり々おりの二ふた重えの虹にじが眼がん前ぜんする。

 歴れき代だい住じゅう職しょく・副ふく住じゅう職しょく・寺じ族ぞくは、その都つ度ど、『雄ゆう龍りゅう虹こう・雌し龍りゅう虹こう』・『コザ大だい龍りゅう柱ちゅう』の縁えん起ぎの如ごとく、二ふた重えの虹にじを『コザ大だい龍りゅう柱ちゅう』と畏い敬けいし、合がっ掌しょう・礼らい拝はいする寺じ風ふうが伝でん承しょうされている。

 『ハワイ・沖おき縄なわ 開かい教きょう録ろく(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し 著ちょ、球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ〉・出しゅっ版ぱん部ぶ)』平へい成せい11(1999)年ねん


本ほん尊ぞん『阿あ弥み陀だ如にょ来らい』

縁(えん)起(ぎ)②

 『抱だき阿あ弥み陀だ(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 『コザ本ほん願がん寺じ(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 今こん日にちにあって、誠まことに勿もっ体たいなく、感かん謝しゃに尽つきる縁えん起ぎである。

 昭しょう和わ50(1975)年ねん、勝しょう如にょ上しょう人にん(大おお谷たに 光こう照しょう 師し〈本ほん願がん寺じ《龍りゅう谷こく山ざん 本ほん願がん寺じ[西にし本ほん願がん寺じ {京きょう都と府ふ}]》・第だい23代だい宗しゅう主しゅ〉)が、球きゅう陽よう寺じ(コザ山ざん ライカム院いん 球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ《沖おき縄なわ市し》〉)を巡じゅん回かいされる。

 当とう日じつ、入にゅう仏ぶつ法ほう要ようの最さ中なか、小しょう職しょくが、内ない陣じん・宮くう殿でんに、本ほん尊ぞん『阿あ弥み陀だ如にょ来らい』を安あん置ちする予よ定ていのところ、出しゅっ勤きんの栄えいを賜たまわる勝しょう如にょ上しょう人にん、ご自じ身しんにて、差さ定じょう(式しき次し第だい)になき、直ちょく接せつ、内ない陣じん・宮くう殿でんに、本ほん尊ぞん『阿あ弥み陀だ如にょ来らい』を安あん置ちされる。

 まさか、勝しょう如にょ上しょう人にんが、本ほん尊ぞん『阿あ弥み陀だ如にょ来らい』を抱だき上あげてくださるとは・・・。

 有あり難がたき光こう景けいを目まの当あたりにした、当とう院いん・一いち同どう、大おおいに歓かん喜ぎし、感かん涙るいの中なか、合がっ掌しょう・礼らい拝はいを申もうすに至いたる。

 以い来らい、当とう院いん・門もん信しん徒との誰だれ言いうとなく、本ほん尊ぞん『阿あ弥み陀だ如にょ来らい』をして、『抱だき阿あ弥み陀だ』と尊そん称しょうする。

 後ご日じつ、礼れい状じょうを認したため、当とう院いん・一いっ行こう、本ほん願がん寺じに勝しょう如にょ上しょう人にんを訪たずねる。

 謹つつしんで、手て土み産やげの沖おき縄なわ県けん産さん・モヅク藻付を献けん上じょうする。

 勝しょう如にょ上しょう人にんより、馳ち走そうの礼れいを賜たまわりつつ、当とう院いんの沖おき縄なわ開かい教きょうについて、過か分ぶんなる労ねぎらいの言こと葉ばを頂ちょう戴だいする。

 同どう時じに、公こう称しょう『コザ本ほん願がん寺じ』を下か付ふされる。

 念ねん仏ぶつ者しゃとして、最さい上じょうの至し福ふくを感かんじたことが、昨さっ今こんのように思おもい出だされる。

 『ハワイ・沖おき縄なわ 開かい教きょう録ろく(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し 著ちょ、球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ〉・出しゅっ版ぱん部ぶ)』平へい成せい11(1999)年ねん


袋(たい)中(ちゅう)上(しょう)人(にん)

縁(えん)起(ぎ)③

 『袋たい中ちゅう上しょう人にん(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 浄じょう土ど真しん宗しゅう本ほん願がん寺じ派は(西にし本ほん願がん寺じ)・沖おき縄なわ開かい教きょうが、軌き道どうに乗のりつつあった、昭しょう和わ49(1974)年ねん、大だい学がく院いんの旧きゅう友ゆうより、夜や分ぶんに電でん話わを受うける。

 用よう件けんは、1体たいの木もく像ぞうを球きゅう陽よう寺じ(コザ山ざん ライカム院いん 球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ《沖おき縄なわ市し》〉)に奉ほう納のうしたいとのこと。

 詳しょう細さいを聞きくに、『琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわ』に多た大だいなる功こう績せきのあった、袋たい中ちゅう上しょう人にん(檀だん王のう法ほう林りん寺じ〈朝ちょう陽よう山ざん 栴せん檀だん王のう院いん 無む上じょう法ほう林りん寺じ《京きょう都と府ふ》〉・開かい基き)と思おぼしき木もく像ぞうではあるまいか?

 当とう然ぜん、粗そ相そうがあっては申もうし訳わけなく、本ほん来らい、安あん置ちするべき寺じ院いんへの奉ほう納のうを勧すすめる。

 ところが、四し方ほう八はっ方ぽう、手てを尽つくすのだが、有う縁えんの寺じ院いんでは、奉ほう納のうどころか、門もん前ぜん払ばらいのやり取とりが続つづいていたようである。

 歴れき史しある寺じ院いんとしては、至し極ごく、当とう然ぜんの対たい応おうであろう。

 100年ねん以い上じょう、昔むかしから祀まつられていたとはいえ、どのような経けい緯いで、旧きゅう友ゆうが言いう、ウグヮンジョ御拝所にウンチケー案内されていたのか、その出で処どころすら不ふ明めいな木もく像ぞうである。

 安あん易いには、引ひき受うけられないのが現げん状じょうであろう。

 しかし、名な立だたる袋たい中ちゅう上しょう人にんへの信しん仰こうが、寺じ院いんのみに在あらず、『琉りゅう球きゅう・沖おき縄なわ学がく』のレベルで畏い敬けいされていることは、哲てつ学がく・宗しゅう教きょう学がく・仏ぶっ教きょう学がく・真しん宗しゅう学がくとの純じゅん粋すい研けん究きゅう・比ひ較かく研けん究きゅうに於おいて、誠まことに興きょう味み深ぶかいことである。

 後ご日じつ、読ど経きょうを厳ごん修しゅし、丁てい重ちょうに、木もく像ぞうの胎たい内ない願がん文もんの確かく認にんを行おこなう。

 記き載さい中ちゅうには、『弁べん蓮れん社じゃ入にゅう観かん良りょう定じょう袋たい中ちゅう上しょう人にん』と認したためられており、袋たい中ちゅう上しょう人にんの正せい式しき呼こ称しょうを踏ふまえ、明あきらかに尊そん住じゅう格かくの筆ひっ跡せきと判はん断だんする。

 この諸しょ事じ情じょうを考こう慮りょし、暫しばらくの間あいだ、当とう院いんにて預あずかることにする。

 浄じょう土ど真しん宗しゅうと浄じょう土ど宗しゅう、本ほん来らい、宗しゅう派はは異ことなるのだが、念ねん仏ぶつを同おなじくする、浄じょう土ど系けいということで、小しょう職しょくも納なっ得とくせざるを得えない。

 奇き遇ぐうにも、念ねん仏ぶつ踊おどりを起き源げんとする、エイサー念仏踊り・始し祖その袋たい中ちゅう上しょう人にんに所ゆ縁かりがあるのか?

 当とう院いんも、古こ今こんより、『エイサー念仏踊り精しょう舎じゃ』と呼こ称しょうされている。

 これも尊とうとい仏ぶつ縁えんと頂ちょう戴だいし、袋たい中ちゅう上しょう人にんを厨ず子しへと安あん置ちさせていただく。

 この間かん、有う縁えん、以い外がい、その他た、近きん隣りんの浄じょう土ど宗しゅう寺じ院いんにも、奉ほう納のう・引ひき取とりの問とい合あわせをするのだが、詰つまるところ、当とう院いんでの安あん置ちを奨しょう励れいされる結けつ末まつとなる。

 こうなれば、致いたし方かたなく、物もの事ごとは、良よいように捉とらえたいものである。

 以い後ご、翌よく年ねんより、袋たい中ちゅう上しょう人にん・命めい日にちに袋たい中ちゅう忌き法ほう要ようを厳ごん修しゅし、当とう院いん・寺じ宝ほうと定さだめる。

 ちなみに、当とう院いんも、長ちょう期きに亘わたり、寺じ院いんの後こう継けい者しゃ問もん題だいがあり、そのウグヮンジョ御拝所、同どう様よう、次じ世せ代だいに頭あたまを悩なやめる日ひ々びであった。

 いつからともなく、毎まい朝あさの勤ごん行ぎょうの折おり、袋たい中ちゅう上しょう人にんの尊そん前ぜんで愚ぐ痴ちを溢こぼすことも屡しば々しば。

 そんな、ある日ひのこと、明あけ方がたであったか、夢ゆめか現うつつの中なか、枕まくら元もとに袋たい中ちゅう上しょう人にんが鎮ちん座ざましましていたような記き憶おくがある。

 微かすかな仰おおせには、

「吾わが、似に通かよる学がく僧そう、貴き院いんと法ほう縁えんに結むすばれるであろう」

とのこと。

 それから世よは、昭しょう和わから平へい成せいに変かわり、当とう院いんは、住じゅう職しょく後こう継けい者しゃを迎むかえることになった。

 よくよく、尋たずねてみると、彼かれの誕たん生じょう日びは1月がつ21日にち。

 驚おどろくことに、袋たい中ちゅう上しょう人にんの命めい日にちと同どう日じつではないか。

 1年ねんは、365日にちもありながら、流さす石が、奇き遇ぐうに値あたいするであろう。

 まさに、

「吾わが、似に通かよる学がく僧そう」

である。

 現げん在ざい、その住じゅう職しょく後こう継けい者しゃは住じゅう職しょくとなり、子し弟ていも、浄じょう土ど真しん宗しゅう最さい高こう学がく府ふの龍りゅう谷こく大だい学がく・龍りゅう谷こく大だい学がく大だい学がく院いんへと進しん学がくしている。

 しかも、3人にんの子し弟てい、全ぜん員いんである。

 小しょう職しょく、このことは何なに事ごとにも代かえがたく、ありがたきかな、袋たい中ちゅう上しょう人にんの夢む告こくに心こころから感かん謝しゃを申もうし上あげる。

 早はやいもので、今こ年としの袋たい中ちゅう忌き法ほう要ようは、第だい30回かい記き念ねん法ほう要ようを迎むかえる。

 『ハワイ・沖おき縄なわ 開かい教きょう録ろく(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し 著ちょ、球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ〉・出しゅっ版ぱん部ぶ)』平へい成せい11(1999)年ねん


コザ大だい仏ぶつ(阿《あ》弥《み》陀《だ》如にょ来らい)

縁(えん)起(ぎ)④

 『コザ大だい仏ぶつ(阿あ弥み陀だ如にょ来らい)の縁えん起ぎ(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 T様さま(沖おき縄なわ市し)の言いい伝つたえによると、『コザ大だい仏ぶつ(阿あ弥み陀だ如にょ来らい)の縁えん起ぎ』は、タイの疫えき病びょう退たい散さんを象しょう徴ちょうする、『ルークサーオ大だい仏ぶつ』の逸いつ話わからとのこと。

 日に本ほんでは、天てん保ぽう11(1840)年ねん、タイ・バンコクのとある村むら々むらでは、不ふ治じの病やまいといわれる、大たい変へんな疫えき病びょうが流は行やっていたようである。

 やがて、その疫えき病びょうは、村そん長ちょうの幼おさない娘むすめのいのちをも脅おびやかすようになったという。

 近きん隣りんの村むら々むらの名な立だたる名めい医いの往おう診しんも空むなしく、ついに、娘むすめは病やまいの床とこに臥ふせてしまった。

 元もと々もと、その村むらには疫えき病びょう退たい散さんの大だい仏ぶつ信しん仰こうがあり、村そん長ちょうは、村むらの民たみのため、娘むすめのため、中ちゅう国ごく・福ふっ建けん省しょうより、丈じょう六ろく仏ぶつ(1丈じょう6尺しゃく=4.8m)という見み上あげるような大だい仏ぶつを、村むらの大おお広ひろ場ばに鎮ちん座ざましました。

 大だい仏ぶつは、その大おおきな身から体だからは想そう像ぞうもできない素す早ばやい動うごきで、村むらの民たみに薬やく石せきを配くばり歩あるき、煎せんじ方かたを説とき、昼ちゅう夜やを問とわず、早はやい回かい復ふくを願ねがったという。

 薬やく石せきの功こうあって、村むらの疫えき病びょうは瞬またたく間まに収おさまるも、村そん長ちょうの娘むすめだけは、病やまいの床とこに臥ふしたまま、一いっ向こうに回かい復ふくの兆きざしがない。

 そのことに、大たい変へん、心こころを痛いためた村そん長ちょうは、雨あめの日ひも風かぜの日ひも大だい仏ぶつに参さん拝ぱいし、奥おく様さま、共とも々ども、娘むすめの回かい復ふくを願ねがったという。

 娘むすめは、薬やく石せきを煎せんじて飲のむことを頑かたくなに拒こばんだ。

 幼おさな子ごとしては、当とう然ぜんのこと。

「良りょう薬やくは口くちに苦にがし」

とはよく言いったもので、効こう能のうある薬やく石せきとはいえ、好このんで飲のめる味あじではなかったのであろう。

 また、ありがたく、威い厳《げん》ある大だい仏ぶつから薬やく石せきを勧すすめられたとしても、その巨きょ大だいさには、唯ただ々ただ、恐おそれ戦おののいて泣なくばかり。

 大だい仏ぶつは、暫しばらく、思し案あんした。

 古いにしえの唄うたにある、

「大だい大だい仏ぶつは十じっ方ぽうの民たみを救すくう 小しょう大だい仏ぶつは一いち隅ぐうの民たみを救すくう」

と称となえると、刹せつ那なにその大おおきな身《から》体だは、丈じょう六ろく仏ぶつの半はん分ぶんの更さらに半はん分ぶんに近ちかい、五ご尺しゃく(1.5m)の小ちいさな身から体だに変へん化げした。

「十じっ方ぽうの民たみ」

とは万ばん人にんを、

「一いち隅ぐうの民たみ」

とは一人いちにんを表あらわしている。

 五ご尺しゃくとは、村そん長ちょうの奥おく方がた、つまり、娘むすめからして、母ぼ堂どうの身みの丈たけであった。

 大だい仏ぶつは、母はは親おやの姿すがたとなり、優やさしく笑えみを浮うかべながら、安あん心しんして泣なき止やんだ娘むすめに、薬やく石せきを煎せんじて飲のませたという。

 やがて、娘むすめは全ぜん快かいの後のち、燥はしゃぎながら大だい仏ぶつの懐ふところに抱いだかれたとのこと。

 これが、大だい大だい仏ぶつでありながら、小しょう大だい仏ぶつと崇あがめられる大だい仏ぶつの縁えん起ぎである。

 大おおきな大だい仏ぶつもありがたいものであり、小ちいさな大だい仏ぶつも等ひとしくありがたいものである。

 娘むすめ、一いち人にんのため、その大おおきな身から体だを小ちいさな身から体だに挺ていしたことが、仏ぶっ徳とくのなせる業わざであろう。

 娘むすめの全ぜん快かいを喜よろこんだ村そん長ちょうは、このありがたい大だい仏ぶつを近きん隣りんの村むら々むらに紹しょう介かいし、望のぞめば、分わけ隔へだてなく、遷せん座ざを申もうし上あげたという。

 以い来らい、180年ねんの歴れき史しを重かさね、大だい仏ぶつは、タイ→スリランカ→中ちゅう国ごく→沖おき縄なわ市しへと尊とうとい仏ぶつ縁えんがあり、今こん日《にち》、球きゅう陽よう寺じ(コザ山ざん ライカム院いん 球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ《沖おき縄なわ市し》〉)に奉ほう納のうの経けい緯いとなった。

 その尊そん称しょうは、タイ語ごで娘むすめを意い味みする『ルークサーオ大だい仏ぶつ』から、時じ代だいの移うつろいの中なか、『コザ大だい仏ぶつ』に変かわわっている。

 その後ごも、『コザ大だい仏ぶつ』は、大だい大だい仏ぶつに戻もどることなく、小しょう大だい仏ぶつのまま、幼おさな子ごを救すくうこと頻しきり。

 身みの丈たけは、今いまでも、五ご尺しゃく、当とう時じの容よう姿しである。

 近きん年ねん、誰だれ言いうとなく、自じ信しんの辛つらい箇か所しょ、痛いたい箇か所しょがあるとき、『コザ大だい仏ぶつ』の箇か所しょを自じ身しんの箇か所しょと見み做なし、丁てい寧ねいに摩さすり撫なでると、その辛つらさ、痛いたみは和やわらぐのだとか。

 当とう院いん、浄じょう土ど真しん宗しゅう本ほん願がん寺じ派は(西にし本ほん願がん寺じ)の寺じ院いんとしては、あくまでも俗ぞく説せつと否ひ定ていするも、人ひと々びとの拝はい観かんは、今こん日にちも後あとを絶たたない。

 現げん在ざい(令れい和わ3〈2021〉年ねん)、『コザ大だい仏ぶつ』は、日に本ほん最さい小しょうの大だい仏ぶつであるとのこと。

 昨さっ今こん、新しん型がたコロナウイルス感かん染せん症しょうとの共きょう存ぞんを余よ儀ぎなくされる時じ代だい、参さん拝ぱい者しゃ・観かん光こう客きゃく、皆みな様さまが、当とう院いんの球きゅう陽よう門もん(仁に王おう門もん)を潜くぐり、『ルークサーオ大だい仏ぶつ』を偲しのびつつ、娘むすめを懐ふところに抱いだかれた当とう時じの容よう姿し、そのままの『コザ大だい仏ぶつ』に合がっ掌しょう・礼らい拝はいする日ひ々ひである。

 『ハワイ・沖おき縄なわ 開かい教きょう録《ろく》(帰き依え 宗《そう》信《しん》 師《し》・帰き依え 龍《りゅう》照《しょう》師《し》 著ちょ、球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ〉・出しゅっ版ぱん部ぶ)』平へい成せい11(1999)年ねん


コザ仁に王おう(金こん剛ごう力りき士し〈阿あ形ぎょう〉)

コザ仁に王おう(金こん剛ごう力りき士し〈吽うん形ぎょう〉)

コザ大だい龍りゅう宮ぐう神じん(大だい龍りゅう宮ぐう神じん)

縁(えん)起(ぎ)⑤

 『コザ仁に王おう(金こん剛ごう力りき士し)の伝でん説せつ (帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 『コザ大だい龍りゅう宮ぐう神じん(大だい龍りゅう宮ぐう神じん)の伝でん説せつ (帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し)』

 民みん話わ家か・A様さま(沖おき縄なわ市し)の語かたり草ぐさによると、『コザ仁に王おう(金こん剛ごう力りき士し)の伝でん説せつ』・『コザ大だい龍りゅう宮ぐう神じん(大だい龍りゅう宮ぐう神じん)の伝でん説せつ』は、親おや孝こう行こうな兄きょう弟だいを偲しのぶ昔むかし話ばなしからとのこと。

 ・・・いつの頃ころやら、琉りゅう球きゅう王おう国こく・中ちゅう山ざんの越ごえ来く間ま切ぎり・山やま内うち(沖おき縄なわ市し山やま里ざと)に、ジラー次郎・サンラー三郎という仲なかの良よい兄きょう弟だいがおったそうな。

 今いまでいうたら、ジラー次郎が小しょう学がっ校こうの5・6年ねん生せい、サンラー三郎が小しょう学がっ校こうの1・2年ねん生せいくらいかの~。

 長ちょう男なんのタルー太郎は、もう糸いと満まんへ奉ほう公こうに行いき、ウミンチュ海人の手て伝つだいをしとったみたいでの~。

 この子こらは、お父とう・お母かあの手て伝つだいもようするし、ウティラカー御寺井泉の水みず汲くみや撒まき割わりをしては、大おと人なも顔かお負まけするくらい、怪かい力りきの持もち主ぬしじゃったそうな。

 それに加くわえて、とても利り発はつじゃったとも聞きいておる。

 あるとき、ジラー次郎・サンラー三郎の住すむ村むらは、長ながい間あいだ、民たみから慕したわれた首しゅ里りの地じ頭とうに代かわり、薩さつ摩まから役やく人にんがやって来きたんじゃそうな。

 ま~、この新あたらしい役やく人にんの強ごう欲よくなことというたら。

 いきなり、今いままでの年ねん貢ぐの倍ばいを納おさめるよう、村むらの長おさに申もうしつけたんじゃそうな。

 ジラー次郎・サンラー三郎のお父とうでもある村むらの長おさは、頭あたまを抱かかえ込こんでしもうての~。

 そりゃ~、困こまったのは村むらの長おさだけじゃない、村むらの民たみも同おなじじゃった。

 食くうのにもやっとの貧まずしい日ひ々びじゃが、今いままでの地じ頭とうは、豊ほう年ねん祭さいのウサギムンお供え物・ウサンデー下げ膳の分ぶんまでは、絶ぜっ対たい、取とり上あげはせんかった。

 ところが、この役やく人にんは、次つぎの年としに撒まかんといけん、田た圃んぼ・畑はたけの種たねまで取とり上あげようとしたんじゃと。

 堪たまり兼かねた村むらの長おさは、年ねん貢ぐを改あらためるよう直じき訴そしたんじゃが、これが役やく人にんの逆げき鱗りんに触ふれての~。

 その場ばで、惨むごいことに斬ざん首しゅされてしもうたんじゃそうな。

 お父とうの亡なき骸がらを見みた、ジラー次郎・サンラー三郎は、山やま・川かわが揺ゆれるくらい大おお泣なきしての~。

 悔くやしゅうて、悔くやしゅうて、何なん度ども、何なん度ども、地じ面めんを踏ふみつけたんじゃと。

 やがて、怒いかりのあまり、兄きょう弟だいの顔かお・姿すがたは、天てん部ぶの仁に王おうの形ぎょう相そうになってしもうたんじゃそうな。

 お父とうの四し十じゅう九く日にちの夜よる、ジラー次郎・サンラー三郎は、館やかたへと出で向むき、再さい度ど、年ねん貢ぐを改あらためるよう、無む念ねんのお父とうの思おもいを役やく人にんに告つげたんじゃと。

 ところが、その孝こう行こうの思おもいとは裏うら腹はらに、

「親おやも親おやなら、子こも子こよの〜」

と、役やく人にんは、またしても、兄きょう弟だいを斬ざん首しゅし、その亡なき骸がらは裏うら山やまの山やま桃ももの木きの下したに捨すててしもうたんじゃそうな。

 そのことを伝つたえ聞きいた村むらの民たみは、大たい層そう、兄きょう弟だいを憐あわれみ、山やま桃ももの木きの傍かたわらに、小ちいさな祠ほこらを祀まつってあげたんじゃと。

 さて、それから暫しばらくしてのこと、この役やく人にんが田た圃んぼ・畑はたけの見み回まわりをしとるとき、たまたま、その祠ほこらの横よこを通とおったんじゃそうな。

 すると、どこからともなく、

「ジラー次郎・サンラー三郎、ニオーブトゥキ仁王仏」

という大おおきなフェーシ囃子とともに、馬うまの上うえでふんぞり返かえっていた役やく人にんが、土つちの上うえにドスンと落おっこちたんじゃと。

 ま~、そのときの役やく人にんの姿すがたというたら、滑こっ稽けいなチョンダラー京太郎と見み間ま違ちがうほどじゃったそうな。

 村むらの民たみは、腹はらを抱かかえたいのは、山やま々やま、それでもここで笑わろうたら、また年ねん貢ぐが上あががるかもしれんと我が慢まんしとったんじゃが、何なん度ど、役やく人にん様さまが馬うまに乗のっても、

「ジラー次郎・サンラー三郎、ニオーブトゥキ仁王仏」

というては、土つちの上うえにドスンと落おっこちる始し末まつでの~。

 とうとう、可お笑かしゅうて、堪こらえきれんようになった村むらの民たみが、

「見みてみ~、こりゃ~、村むらの長おさからの罰ばちじゃ」

「いやいや~、こりゃ~、ジラー次郎・サンラー三郎からの祟たたりじゃ~」

と口くち々ぐちに言いうもんじゃから、赤あから顔がおになった役やく人にんは、馬うまにも乗のれんまま、そそくさと急いそいで、自じ分ぶんの館やかたに帰かえったんじゃと。

 その夜よるのこと、役やく人にんは落らく馬ばのことが悔くやしゅうてならん。

 自や棄け酒ざけを鱈たら腹ふく飲のんで、え~、こんころもちで眠ねむりこけていた丑うし三みつのとき、その枕まくら元もとに仁に王おうの形ぎょう相そうの兄きょう弟だいが立たっておったんじゃそうな。

 そうじゃ~、その兄きょう弟だいとはジラー次郎・サンラー三郎のことよ~。

 ジラー次郎は、口くちを大おおきく開あけた仁に王おう・阿あ形ぎょうの顔かおと姿すがたでな~。

 サンラー三郎は、口くちを固かたく閉とじた仁に王おう・吽うん形ぎょうの顔かおと姿すがたでな~。

 ジラー次郎「役やく人にん様さま~、明あし日たも田た圃んぼ・畑はたけの見み回まわりをしたらいいさ~」

 サンラー三郎「役やく人にん様さま~、そしたら、また、わしが馬うまから落おとしてやるさ~」

 ジラー次郎「役やく人にん様さま~、怖こわかったら、明《あし》日《た》は田た圃んぼ・畑はたけの見み回まわりをやめたらいいさ~」

 サンラー三郎「役やく人にん様さま~、やめても、また、わしが馬うまから落おとしてやるさ~」

 ジラー次郎・サンラー三郎「ジラー次郎・サンラー三郎、ニオーブトゥキ仁王仏」

 ジラー次郎・サンラー三郎「ジラー次郎・サンラー三郎、ニオーブトゥキ仁王仏」

 これを一ひと晩ばん中じゅう、何なん度ども、何なん度ども、繰くり返かえされた役やく人にんは、とうとう、朝あさまで眠ねむれんかったんじゃそうな。

 これに懲こりた役やく人にんは、翌よく朝あさ、家け来らいと荷に物もつをまとめ、一いち目もく散さんで逃にげ帰かえったんじゃと。

 それから、半はん月つきほど経たってかの~?

 ジラー次郎・サンラー三郎の村むらには、かつての地じ頭とうが戻もどってくださり、昔むかしのように平へい和わな暮くらしが訪おとずれたんじゃそうな。

 そうそう、そういえば、役やく人にんを懲こらしめた、あの不ふ思し議ぎなフェーシ囃子の

「ジラー次郎・サンラー三郎、ニオーブトゥキ仁王仏」

じゃがの~。

 ある人ひと曰いわく、村むらのため、幼おさなくして亡なくなった兄きょう弟だいの名な前まえの『ジラー次郎・サンラー三郎』とも、怪かい力りきの持もち主ぬしの『ニオーブトゥキ仁王仏』とも言いい伝つたえられておるんじゃそうな。

 暫しばらくの間あいだは、山やま桃ももの木きの傍かたわらにあった兄きょう弟だいの祠ほこらじゃが、今いまは、どこらへんで祀まつられておるんじゃろうか~?

 風かぜの噂うわさじゃがの~、球きゅう陽よう寺じ(コザ山ざん ライカム院いん 球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ《沖おき縄なわ市し》〉)の球きゅう陽よう門もん(仁に王おう門もん)にある『コザ仁に王おう』となって、兄きょう弟だいは、コザの民たみを見み守まもっておるんじゃとか。

 兄きょう弟だいが水みず汲くみした、ウティラカー御寺井泉は、『コザ大だい龍りゅう宮ぐう神じん』となって、球(きゅう)陽(よう)寺(じ)の境けい内だいに淡たん々たんと湧わき出いでておるんじゃと。

 いつの頃ころやら、これが『コザ仁に王おうの伝でん説せつ』・『コザ大だい龍りゅう宮ぐう神じんの伝でん説せつ』の昔むかし話ばなしじゃと~・・・。

 A様さまの語かたり草ぐさを懐なつかしく思おもい出だしながら、今きょ日うも小しょう職しょくは、伽が藍らん・境けい内だいの掃そう除じの合あい間ま、『コザ仁に王おう』・『コザ大だい龍りゅう宮ぐう神じん』に合がっ掌しょう・礼らい拝はいしている。

 「ジラー次郎・サンラー三郎、ニオーブトゥキ仁王仏」

 「サリ、ウートートゥ、アートートゥ、ワッター、ウティラヲ、ミーマントーティ、クミソーリヨーサイ、サリ、ウートートゥ、アートートゥ(私わたしたちの球きゅう陽よう寺じを見み守まもってください)」

 『ハワイ・沖おき縄なわ 開かい教きょう録ろく(帰き依え 宗そう信しん 師し・帰き依え 龍りゅう照しょう 師し 著ちょ、球きゅう陽よう寺じ〈コザ本ほん願がん寺じ〉・出しゅっ版ぱん部ぶ)』平へい成せい11(1999)年ねん